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nero8



部屋に戻ると、毛布が足元に丸まって忘れ去られ、布団の中が晒されていた。マリは目を覚ましていて、枕の上に頬杖をついて、昨日サルが読んでいた雑誌を広げていた。
「朝ご飯はいつも食べないの。食欲ないから」と、マリはネロの質問を先回りして答えた。「自分の欲求は、ちゃんと自分で管理してるのよ」
「でも、それで飛行訓練に耐えられる?お腹すいちゃうよ」服の捲れたところから見える、細い腰に視線を向けながらネロが訊いた。マリは驚いたようにネロを見上げると「訓練?先生もいないのに、どうやってするのよ」と言った。
 マリは先生の到着が遅れている理由を、ネロに説明した。もしかすると、永遠にたどり着かないかもしれないという。どんなに到着することを約束されていたとしても、実際にはまだ到着していないのだ、とマリはそのことを何度も強調した。
 そうはいっても、ネロは訓練を受けたかった、自由に空を飛ぶためにね。
「先生がいないから、訓練ができない。それなら、こう考えたらどうかな。もし訓練ができるなら、先生はいるんだ」
マリはネロのアイデアを面白がり、「じゃあ訓練を始めるために人を集めよう!」と張り切った。
マリの着替えた服はサイズが大きくダボダボだったが、マリは違和感なく着こなした。外では暇を持て余した訓練生たちが当てもなくさまよっていたから、人探しに苦労する心配はなかった。マリが声をかけると、誰もが一瞬の戸惑いのあと、すぐにほろほろと顔をほころばせた。誘いの言葉というのは、どんなものでも嬉しいらしい。
 二人は記念碑のある中庭に集合をかけた。記念碑には〈人間よ、人間的であれ〉と刻まれていた。
訓練を始めようと思えば、始められるはずだった。だが、誰もが、あとは先生さえ来ればすぐに訓練を始められる、と考えている様子なのだった。すると、人々の群れの中から、野球帽がいそいそと抜け出してきて、人々の方へ向き直った。野球帽は声を張り上げ「これから飛行する際に、決して忘れてはならない原則をおれのほうから発表する。心して聞くように」と偉そうに吠えた。全ての人々の視線を集めることができたので、野球帽は嬉しそうな表情をその顔にくっきりと浮かべた。
「第一原則は、風の動きを読むこと。それによって、飛行の調整だけでなく、天候の変化をも予測することができるのだ」
 人々の間では、ため息やら、「お」という声やら、「自明だね」「退屈」というつぶやきがこぼれた。
「第二原則は、太陽の位置を常に気にすること。昼と夜を、同じ世界の延長と考えるなんて、愚の骨頂だ」
 人々の中にはとっさに太陽を見上げてしまったために、目を傷めるものもあった。しかし多くは、地面に延びる影を確認して、ふんふんという納得の頷きを見せた。
「第三原則は、姿勢のキープ。正常な姿勢が崩れれば――」
野球帽の声は、金属パイプ同士を打ち鳴らしたような音によって引き裂かれた。その音はしばらくしてからやっと人間の声としての体裁をとり始めた。
「原則はたった一つでしょう?誰にも迷惑をかけないことですよ」声の主である女は、堂々とした足取りで野球帽の隣に立つと、そう宣告した。
 女は人々が待ち望んでいた先生だった。先生が歩いてきた先の勝手口からは、冷たい風が吹き込んでいた。ネロが使ったのとは、別の勝手口だった。風にもまれて、砂のように乾いてしまった雪を体に浴びながら、係員たちは閉まらなくなった勝手口にてこずっていた。先生が勢いよく扉を開けたために、立てつけが悪くなってしまったんだ。
 先生は訓練を始める前に、団結力を高めるために歌を歌います、と命令した。先生は歌詞の書かれた紙を人々に配った。「まずは一番から」
野球帽は歌声に自信でもあるのか、「ヤア、ヤア、ヤア」と、真っ先に発声練習めいたことを行った。そして先生のほうをチラ見した。
しかしマリは先生が偽物であるとにらんでいた。「そんなに都合よく進むはずないと思う。なにかがぴったり合うときは、必ずどこかで調整が行われていると考えるべきだわ。不気味」
マリのささやきは、がちゃがちゃしたまとまりのない音楽に飲み込まれてしまった。
 
おとうさん おかあさん 
ありがとう ありがとう 
ぼくら(わたしたち)はがんばります 
わたしたち(ぼくら)はたたかいます 
一致団結して 
いざ いざ
 
ドンドンドンドン、太鼓の音が急き立てるように打ち鳴らされて、合唱は終わった。多くの人々の気分は高揚し、汗ばんで上着を脱ぐ姿もあった。先生はその様子を見渡し、係員に、地面の電気ケーブルの温度を下げて、気温を最適化するように指示を出した。しかし、係員たちは、すでに適温に設定してあるので、それを勝手に変えることは出来ない、と言って譲らなかった。先生は汗ばむ自らの額をハンカチでおさえながら、目を細めて係員を睨みつけた。アイシャドウが汗で滲んでいた。
 人々は先生と係員たちとのやり取りをしばらく眺めていたが、次第に、背中を丸めてだらだらと、自室に消えてゆく姿が増えていった。訓練がいつまでたっても始まらなかったからだ。
人々の密度が下がり始めて風通しが良くなると、マリは、「ねえ」とネロを呼んだ。
「気分転換にお昼ご飯食べに行こうよ」
「でもまだ時間じゃないよ。ほら、食堂の煙突の煙が、まだ透明だ」
「食堂じゃないわ、隣町まで行くの。もうホタル牛なんて食べ飽きたでしょう?」

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