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nero12



 灯りなしで立ち入るには暗すぎる部屋の奥に、人の気配があった。ネロが灯りをつけようとすると、「灯りをつけないで」女の声だった。
「だれ?」ネロが訊く。
「誰だと思うの?」女はそう訊き返した。
「サルなの?」ネロは恐る恐る言った。
「私に訊かないでよ。きみが私の事をサルだと感じたのなら、私はサルなのよ」
「…サル、きみはどこへ行ってたの?」
「どこへも行ってないわ。それよりきみはなにをしていたの?」
「マリっていう子に会ったんだ」
「彼女は今どこ?」
「忘れ物を取りに行ったんだ。もうすぐ戻ってくるはずだよ」
「ねえ、もっと私の近くに来て…あれが見える?」
 ネロは靴を脱いで部屋にあがった。床の畳がきしんでうめいた。何も見えない部屋を恐る恐る進んでゆくと、人の体が発する湿った熱を感じた。
「あれ」窓のそばで、サルの声だけが聞こえる。
「ああ、ホタル牛だね…星みたいできれいだ」
「そうかしら、なんだか安っぽい光だと思わない?」
夜は圧迫する黒い壁で、手をのばせばそのざらりとした手触りを得られそうだった。光は雑にはがされたシールのように、白くなって壁の上にこびりついていた。目印になりそうな突起やへこみは、どこにも一つもないらしい。ただ、ホタル牛の光だけが、遠近感を失ったように、壁を貫いて窓辺まで届いていた。
「真っ暗でびっくりしたでしょ?」
「うん」
「でも我慢してね」そう言うとサルは唐突にネロの腕をつかんだ。それからネロの手に棒状のものを握らせた。「今日はその懐中電灯を使って。そうすれば部屋の灯りはつけないですむでしょ?お願い」
ネロは早速懐中電灯をつけて、足元を照らした。薄汚れた畳や、布団が見えるようになる。白い円錐を移動させてゆくと、サルの足がそのなかに入り込んだ。
「私を照らさないで」サルは静かに言った。ネロは懐中電灯の灯りを脇に逸らせた。
立ったままでいるネロの横で、サルはごそごそと動き出した。その様子から、サルが布団の中にもぐりこんだという事が分かった。ネロは懐中電灯をつけたまま、自分の布団の上に腰を下ろした。
「もう寝るの?」ネロが訊くが、返事はない。
ネロは布団の上にあおむけに寝そべって何気なく、持っている懐中電灯を天井に向けた。
部屋が唐突にざわめいたみたいだ。天井一面に、極彩色の不気味な絵が描かれていた。
「あの絵はなに?」とネロは絵にくぎ付けなったまま、サルに訊いた。
「あれはヴィラーサの肖像よ。私が描いたの」
「ヴィラーサ?きみは、ヴィラーサを見たことがあるの?」ネロは鼻息を荒くしながら、しかし平静を装って、囁くように訊いた。
「あるわよ、なかったらどうしてそれを描けるの」
 ネロはより近くで見るために立ち上がったが、立ち上がると全体を見渡せず、むしろ見えづらいので、もう一度大の字に寝そべって、肖像との距離をつくった。
 鮮やかな身体の一方で、のぞく目玉は澄んで、理性の光が宿っていた。ヴィラーサは天井に磔にされて、立体感を持たず、切り広げられた一枚の皮のようにも見えた。
「これがヴィラーサ?」ネロは暗い声で呟いた。
「何を吹き込まれたのか知らないけどね、ヴィラーサなんてこんなものよ」
 ネロは天井を丹念に見つめて、絵の中から特別に新しいものを発掘しようとした。サルはネロの横で深く息を吸い込み、そして吐いた。それは単なる呼吸であって、深い意味はない。
それからサルは話し始めた。

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