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短編小説No.11[興の発見]

この小説は久米正雄「父の死」のトリビュート作品です。

 火焔の体をもつ蛇は、その巨体で小学校を締め上げた。火事だった。
 小学生はマンションのベランダで目を離せずにいる。夜空を曇らせる煙の陰鬱な雰囲気と、地面に昇った太陽のごとく光る炎が、小学生の好む幻想世界を彷彿とさせたためだ。母親に呼ばれるまで、寒いベランダから離れようとしなかった。「寒いじゃん」中学生が室内に吹き込む冷気に文句を付ける。小学生はふてくされたような表情をつくりベランダと部屋を隔てる窓を閉め、火事に関心を示さない石のような兄への軽蔑の念を深める。
 小学生が通う小学校には太陽を串刺しにするほどの塔があった。
 頂上には鍵のついた小さな部屋があり、中からうめき声が聞こえてくる。そんなうわさが小学生たちの脳に充満していた。うわさ好きの小学生たちは塔の頂上の部屋の暮らしや、居住者の容姿なり身分を勝手に想像しては、心を踊らせた。心の動きにつられて体も愉快に踊りだした。
 昨晩、燃えていたのはその塔だった。太陽に近づきすぎたために燃えたのだと言う者もあった。落ち残った黒い残骸とくすぶる煙を囲み、大人の三人組が喋っている。
「なんだい、よく燃えたもんぢゃないか」
「からからに乾いていたんだね! 鰹節みたいに」
「だが、なぜ本校舎は無事なんじゃ? 腑におちんのぉ」
「鉄筋だったのだらうよ」
「文明が火事に勝利したってことだね? 科学ってすごいんだ」
「むぅ、近頃は災禍ばかりじゃ」
 ランドセルを背負った小学生は通学路の蛙の背中を踏み、蝶の羽をむしり取りながら学校に近づくにつれて、木材の焦げた匂いが濃くなった。小学生は校門にたどり着くなり、くすぶる煙を取り囲む見知らぬ人々を目撃し、この大人たちによってあの立派な塔が焼かれたのだと勘違いして怯えた。だがよく見れば、三人組のなかの一番若い女は小学生の知り合いだった。
「あれ、小学生じゃん! どうしたの。今日学校はお休みでしょ?」
 女は三人組を置き去りにして二人組にしてしまうと、小学生の不安げな表情を拭い取ろうとするハンカチのような柔らかい声で「昨日の火事でもう丸焦げ。でも、科学があるから大丈夫だよ」と言う。
 女の小脇にハンドバックのように抱えられて、自宅に送り届けられる道すがら、好奇心に目頭切開されたのかと思わせる小学生のぱっちりした目には、路地裏の暗がりにうごめく3匹の鼠の尻尾を振る姿が映っていた。
 小学生がもがいて女の腕から抜け、家に入るとしんとしていた。床に伏す中学生が澄み渡った空気をさみしい咳で揺らすときにかぎって、家にわずかな動揺が生じる。
 小学生は燃え落ちた塔のことを考えるために糖分を摂りたいと思い、冷蔵庫にむかう。冷蔵庫を見張っていた母は、連絡網がさっきようやく回ってきたことを小学生に言い訳したあと、書斎から父親が出てこない、とぼやいて、ため息を小学生に吹きつけた。「ねえきみ、お父さんの部屋に入って様子を見てきてくれないかな。襖に鍵はかけられないんだ。何も知らない顔して入っていけば、お父さんも怒ったりしないよ」
 小学生の心は、役を与えられた嬉しさと、子供らしさを装って行動する快感とに閃いた。目や口、耳の穴から心の閃きが漏れて光の柱を空中に浮かべたので、母は驚いてとっさに小学生の穴という穴を、手のひらで塞いだ。
 襖を引くと、詩の池にはまった父が、うっとりした表情で、風呂場のゴムアヒルのように浮いていた。小学生の侵入にも気づかない。父に変わった様子はなかった。新たな冒険を期待して浮き足立っていた小学生が落胆を隠しきれない様子で立ち尽くしていると、開け放たれたままの襖から隙間風でも吹き込んで寒かったのだろうか、父は意識を取り戻し、小学生に「おまへも此処へ入って来ちゃいけなんだぞ」と請い願うような調子で言った。小学生は詩に入浴中の父を部屋に残して――ただしそれが生きている父を見た最後になるのだが、そんなことを知るよしもない小学生は、言われたとおり書斎を出て襖を閉めたのだった。

 葬列の先頭には歌人隊がついて、挽歌を披露していた。小学生は、自分の父が早々に世界から脱走してしまったという事実に気づいていないのだろうか、持たされた香炉を不思議そうに手の中で弄んでいる。中学生は位牌を捧げ、長い病気が彼に与えた唯一のものである「神妙な顔つき」をかぶって歩いている。
 小学生はふいに小用が足したくなった。我慢は難しいと踏んだ小学生は、注視圏外の寺の境の木立まで走って行き、思い切って用を足したのだが、戻ってから、地面に置いた香炉を忘れて来たことに気づいて、けっきょく葬儀は予定より遅れて始まった。後に予約されていた葬儀に遅れが出ないように、お経は普段より早口に読まれた。
「お父さんのようにえらくなるんですよ」
 と、小学生に言う人がいた。だが、その人のことを知る者はいなかった。知り合い以外の葬儀に出ようと思う人間などいないという先入観を逆手にとった、ゲリラ参列者だったのかも分からないが、考えてみれば、ほとんどの親戚というのはそのようなものだ。

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