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nero6

そろそろ食事が終わりそうだったのだが、唐突に野球帽をかぶった男が大声で演説を始めた。小柄な男だったが、通信販売の段ボールの上に立って話す声は、ネロ達のテーブルまで衰えることなく届いた。おかげで土田陽子と双子双子67は、互いの声を聞きとるために、顔を数センチの距離まで近づけなくてはならなかった。つばの飛び交う議論のためにね。
野球帽とは何者か?
サルの話では、飛行の実地訓練を積んだ、ただ一人の訓練生という事だった。野球帽の話はとても面白く、ネロは他の訓練生たち同様、引き込まれて聞き入っていた。しかしサルは、
「あいつの話はぜんぶ嘘よ」
とネロの耳元で囁いた。ネロがびっくりして訊き返すと、サルは「みんな嘘って知ってるのよ」ほんの少しだけ優しい声で、そう言った「知らないのは君だけ」。
「俺は思う」と野球帽は力強い発声で語り続けた。間違いなく腹から声を出していた。「空を飛ぶというのは、逆立ちするよりもよっぽど楽だと…いや、飛ぶという行為は、逆立ちよりも人間的な行為なんじゃないか、とね。生物学的にと言うんじゃないよ、もちろんね。」
 いつの間にか、野球帽の周りには人垣ができていた。人垣が野球帽の声を閉じ込めるので、その外にいたネロのところまで声が届かなくなりつつあった。たまらずネロが立ち上がって、人垣に近づこうとすると、背後でサルがわざとらしいため息をついた。
「嘘でも耳に心地よければなんでもいいのね」聞こえる声で吐き捨てた。
 ネロが驚いて立ち止まると、誰かがネロの肩に腕を回した。顔を向けると、ネロは誰かと目が合った。無防備さを誇示することで、ネロの警戒心を解こうとでもいうのか、男はヤギのように歯をむき出してネロに笑いかけた。それは一見、土田陽子のようでもあったし、双子双子67のようでもあった。ネロが、「君は67だね」と一か八か試しに訊いてみると、男はうんうんとうなずいて、「そうだ」と答えた。
「見ててみな。こういうやり方知ってる?」
 67は人垣を構成する一人の背中に、傘の先で触れた。そして傘の軸を半分ほどその人の背中、つまり人垣に突き刺すと、ぐりぐりと動かし、人垣の輪を割り始めた。人々が重なり合った輪の幅は、傘の軸よりも長かったが、67が傘を動かすと、輪の中心に向かってジグザグに亀裂が走った。ちぎれかかったバウムクーヘンだ。
 ネロは67が作業している間、サルの姿を探したが、サルはすでに部屋に戻ってしまっていて、テーブル席には親密そうに顔を寄せ合って議論を交わす土田陽子と双子双子67しかいなかった。どうやら、双子双子67は二人いるらしい。
 人垣構成員のうちの幾人かは、亀裂の偶然の道筋のせいで、体を中途半端な部位で分断され、向こう側に右腕が置き去りになったり、お尻の左の山を持っていかれたりした。残酷だね。偶然の亀裂は、人間ごとに一人ひとりきっちり分けるようなことはしなかった。
 こじ開けた場所から、野球帽の姿が見えた。野太い声がもれ聞こえた。67の傘は、血で真っ赤に染まっていた。
「傘が台無しになっちゃったね」とネロが言うと
「こういう色の傘も粋じゃない」と67はさりげない調子で言った。
 ネロと67はちゃぽちゃぽと、赤黒く濡れたタイル張りの床を歩いた。人垣を通りぬけるとき、その道は肉の壁に挟まれていた。いくつもの骨が枝のように突き出していた。こぼれた臓器が道の脇に、枯れ葉のようにたっぷりと積もっていた。
はるばるやって来たネロと67を視界に入れると、野球帽は肩に力が入ったのか、喋り方が急に芝居臭くなった。
「飛行することは、人間を人間たらしめるのだなあ。飛行は、完全な行為なんだ。みんなのためであると同時に、自分自身のためでもあるんだからなあ」
 野球帽の芝居臭さはだんだんと耐えがたくなり、みんな鼻をつまみだした。すると人垣の結合も自然に弱まり、分解し始めた。野球帽としてもしゃべりづらくなったのか、あるいは気負いすぎていることを自覚したのだろう、前もって決めていた分をちょうど喋り終えたというふうにして、そそくさと尻尾を巻いて帰っていってしまった。「今日はここまで」
ネロも帰ろうとして、隣にいたはずの67の姿が見当たらないことに気付いた。ネロが「双子双子67!」と呼ぶと、その声に驚いた数人がネロの方を振り返った。全員がそれぞれ同程度に67らしく見えたが、しかし全員が67のはずはないので、つまりどれも等しく67ではなかった。
 ネロは一人で部屋に戻った。真っ赤な靴跡がネロの足元を追いかけている。部屋ではサルが窓を開けて外を見つめていた。明かりのついた部屋の窓枠に、風船のように張り詰めた夜の暗さが、みっちりと食い込んでいた。「サル?」とネロは声をかけた。サルはそのままの姿勢で、ネロに言った。
「あれを見て」
窓に近づいて、サルが指をさす方向を見ると、漠然とした暗闇の中に、たくさんの青白い光が点滅していた。
「星?」
「あそこはまだ地上よ」
「誰かが通信しているのかな?モールス信号かなにかで」
「遊んでるだけのようにも見えるわ、子どもの悪ふざけ」
「そうかな、あのひかり方、とても切実な感じがするけど」
「ホタル牛の小屋」サルは唐突に言った。
「え?」
「あれね、ホタル牛が発光してるのよ」
「ふうん、チカチカして目に痛いなあ…」
 サルはぴしゃりと窓を閉めると、もう寝よ、と言った。ネロが自分の布団を敷いているうちに、サルはぽっくりと眠りに落ちていた。ネロは部屋の電気を消してから布団に入った。目をつむると寝息が異様に大きく聞こえた。次に目を開けたときには、太陽が昇って窓から白い光が差し込み、すでに別の一日が始まっていた。

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