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第十一話 もう嘘はつかない

自分の創った詩のかけらのようなものを誰かに手渡す、という初めての体験から数週間。私はコーチングのフォロー講座に参加していた。他の人たちが続々と「コーチとして」達成したいことを宣言する中、わたしはひとり「詩を書きたい」と宣言していた。

どう考えてもおかしな発言をしていたのは私の方だ。けれども、そんな宣言をした私への師匠からの提案は「コーチングと詩を併せて売る」ことだった。「違う、そうじゃなくて・・・」そう言いかけて、ぐっと何かを飲み込んだ。どう違うのか。それをまだ人に説明できるほど私のなかで確信もことばも育っていなかったからだ。結局その日は、それが私の独自性になるのならと納得したフリをして、モヤモヤとした気持ちを抱えたまま帰宅した。

その後、詩とコーチングをあわせたセッションを、モニター提供してみた。受けてくださった方たちは、喜んでくれたものの、私の中では違和感が積み重なっていった。

やっぱり、何か違う・・・

セッション中のクライアントさんのもつ、言葉とならない奥にある熱のようなものを、私の解釈で「詩」というカタチを与えてしまって本当にいいのだろうか?ことばは力を持っている。だけど、まだことばにならない何か、にも力がある。詩をひとつ綴るたびに、マイスター・ホラのこの台詞が頭の中でぐるぐると駆け巡る。

それを話すためには、まずおまえのなかで、ことばが熟さなくてはいけない

ミヒャエル・エンデ著『モモ』

クライアントさんの言葉にならぬ、ことばの力。それは、マイスター・ホラに言わせれば、芽を出す日を待つ「種」のようなものだ。私の主観で「詩」というカタチを与えてしまうことは、その大切な種を、まだその時ではないのに、それらしい芽に見せたり、見せかけの花を咲かせることと同じ気がした。私があの日飲み込んだ違和感の正体。それは、きっとこのことだったのだ。

日に日に違和感を募らせていた私の目の前で、「うそ」を知らない世界の住人だった娘が「うそ」をついた。自分を守りたくて咄嗟についた子どもの見えすいた「うそ」は、かわいいものだ。だけど、そんな小さな「うそ」も積み重なれば、誰よりも自分を傷つけ、その力を奪っていくこともある。私はずっと「うそつき」だった。小さなうそが、どれだけ自分の力を奪っていくか、痛いほど経験してきた。だから「うそ」はついてはいけない。そう思うのだ。

「うそつきのはじまり」

娘がはじめて
ホラをふく

「パパ。」

被せる
ぬれぎぬ
上等である

「うそつかないの」

といいながら
はてわたしは
小さな庭で
たゆまず正直に生きている
ミミズのように

土粒一つ残さず
正直に生きてなぞいるのか
という声がする

これまた
上等な布かぶせ
わたしは
また母親風を
ふかしている
 
いったいこれから
母娘で被せる布は
いかほど
厚くなるものかと
途方にくれた
 
せめてこの
詩の上でだけは
正直母さんでありたい

そう懺悔して
いったいわたしは
どんな母親に
なれるというのか

ろっぺん (ペンネーム:鈴木 心彩)


その後、私は詩とコーチングを併せることをやめた。それだけでなく、そのコーチングの資格も更新しなかった。けれどもこのとき、不思議と手放すことを怖れていない自分がいることに気づいた。書くことの力、ことばの力、自分の綴った文章で目の前の人が喜んでくれる、そのことに、ほかならぬ私自身が大いに勇気づけられ、励まされていたのだ。

私という地面の中に埋もれていた種が「ようやくボクを見つけてくれたんだね、嬉しいよ。」そう地面の中で笑ってくれている気がした。

第12話(最終話)につづく


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