【掌編小説】ランニングシューズ

 玄関口の靴を、じっと見つめる。
 あの頃に買った、君と同じメーカーのランニングシューズだ。
 見つめていると、走りに行くのもやめてしまおうかと思うほど、寂しい気持ちに襲われる。

 ——家にいても一緒か

 気持ちを振り切るようにして靴を履き、玄関を出た。
 いつものコースを走り出す。
 今日は休日、いつもより長めに走るとしよう。
 思えばあの頃もそうしていた。




「あっ、これとかよさげじゃない?」

 あの日、君と一緒にスポーツ店に足を運んだ。
 ランニング用のシューズを買いに来たのだ。
 きっかけは、君の『体重増えたかも』というひとことだった。

「見た目はいいとして、重さとかどう?」

「……ディスってる?」

「ちげーよ」

 君は靴に対しての発言を、自分へ向けられたものだと勘違いするほど、敏感になっていた。

「とりあえず、試し履きしてみたらいいと思う」

「うん、そうする」

 そう言って試し履きをすると、君は「わあっ!」と歓声を上げた。

「すごい、めっちゃフィット! さいこー!」

 その喜びようは、まるで、クリスマスプレゼントをもらった子供のようだった。

「まだ決めるのは早いよ。候補に入れといて、もう少し見て回ろうか」

 僕はそう言いつつも、君の笑顔を見れただけで、うれしさでいっぱいになった。

「そうだね。もうちょい見てみる!」

 その後、ひと通り見て回り、結局最初のシューズを買った。
 僕の分も合わせて、二足購入。

「ふふーん、楽しみだなーっ、この靴で走るの!」

 店を出た君は、幸せオーラ全快で鼻歌を口ずさんでいた。

「あなたも楽しみでしょ?」

「ま、まあね」

 対して僕は、どんよりしていた。

「えー? なんか、沈んでなーい??」

「君の気のせいさ」

 なんて言っていたが、嘘だった。
 実のところ、二人分のランニングシューズを購入したおかげで財布がすっからかんで、今月のやりくりが思いやられていた。

「大丈夫? まあきっと、走ったら気分もスッキリするよー」

「そうだな」

 今どき小学生でも提案しなそうな健全すぎるストレス解消法に、僕は呆れつつも微笑んだ。

「帰ったらさっそく、近所を走ろうよ!」

「……ふふ。ああ」

 これだけ楽しみにされていると、買ったかいがあるというもの。

「それじゃ、行こうか」

「うん!」

 僕らは足早に、帰路を歩いたのだった。


「はっ、はっ」

 それからというもの、シューズの履き心地を楽しむかのように、僕らは毎日のようにランニングをした。

「いいペースだよね!」

「そうだな!」

 並走し、会話を交わしながら走る。

「草木がきれいだね」

「ああ。花も色とりどりで、いいな」

 周囲の景色を眺め、微笑みを浮かべる。
 会話をしながらだと、辛いランニングも楽しむことができた。
 ダイエットという大義名分がなくったって、いくらでも君と走っていたいとすら思えるほどに。

「ふーっ、そろそろクールダウンするか」

「うん! はーっ、今日もいい汗かいた!」

 そう言って笑い合った僕らは、今思えばこの上なく幸せな時間の中に居たのだと思う。

「走るのを、こんなに楽しいと思ったのは初めてかもっ!」

「ふふっ、そうか」

 僕が呼吸を整えながら返すと、君が僕をまっすぐに見つめてきた。

「どうした?」

「これもあなたのおかげだな、って思って。ありがとう」

 君はそう言ってはにかんだ。
 まっすぐにお礼を言われ、僕は思わず顔を逸らし、頭をかいた。

「僕の方こそ、ありがとう」

「……えへへ」

 照れくさそうに笑い合いながらも、僕らは、一緒に走る相手がいることの良さを実感していた。
 僕はこれからも、君とこの先の長い道をともに進んでいく未来を想像して。
 君もきっと、僕と同じように考えていて。

 二人がやがて、離れ離れになるだなんて、思ってもみなかったことだろう。




「はっ、はっ、」

 いつものランニングコースを、小気味よく息を吐きながら、走る。
 誰かに合わせることもなく。
 景色に目を向けることもなく。
 ただただ、日課として続けている。
 やめてしまったら、何か大事なものを失ってしまう気がするから。

「……」

 しばらく走ってクールダウンをする。
 隣の空間は人一人分のスペースが不自然に空いている気がして、景色はどこか、彩度を失って見えた。
 膝をつき、足元を見る。
 消えそうな三日月みたいなNIKEのマークが目に映る。
 少し傷が目立つが、まだまだ履けそうなこのシューズ。

 この靴を履きつぶすころには、君を忘れられるだろうか。

 そんなことを考えながら、前方をにらむ。
 それから上体を起こし、ゆっくりと歩き出す。
 しだいに歩幅は大きく、足早になっていって。

 どこまで続くか分からない道を、僕はまた走り出した。

 いつまで一人で進めばいいのかなんて、知ろうともしないままで。




サポートいただけると、作品がもっと面白くなるかもしれません……!