保守の真髄_Fotor

熱狂を抑えることにおける熱狂〜『保守の真髄』

◆西部邁著『保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱』
出版社:講談社
発売時期:2017年12月

西部邁といえば日本の近代保守思想の重鎮的存在でした。中島岳志をはじめ西部を敬愛する後進の保守思想家は多いですし、テレビの討論番組でバトルを展開した宮台真司もその後は西部と何度か親密な対談を交わしています。2018年1月に惜しまれつつ他界した直後には本書にも言及した追悼的文章をいくつか見かけたこともあり、久しぶりに西部の本を手にとりました。

なるほど首肯しうる発言は少なくありません。戦後日本の米国隷従を厳しく糾弾しているあたりは、白井聡の〈永続敗戦論〉とも重なり合うものでしょうし、新自由主義的なグローバリゼーションに対する異議は、むしろ社民主義やリベラリズムに近しいものと思われます。保守思想と社民主義の親和性の高さはつとに指摘されてきたことですから、それは別段驚くほどのこともでもないのでしょうが。

「『熱狂を抑えることにおける熱狂』こそが保守的心性の真骨頂なのである」とか「保守に必要なのは『矛盾に切り込む文学のセンス』」などはつい引用したくなるフレーズかもしれません。

ただそれ以上に、同意できない見解もまた頻出します。何より伝統や歴史の持ち出し方がいかにも抽象的で、スローガンの域を出ないのではないかと思います。もっとも引っかかるのは「近代への懐疑」の必要性を繰り返し力説しながら、近代の産物に他ならない国民国家という枠組みを疑う姿勢が微塵も見えないことです。

西部は、国民国家に関して人類史の全体をとおして存在してきたものと捉えているようですが、それは端的に誤りでしょう。国家の形態をとらない社会や共同体で生きてきた経験の方が人類は長いのではないでしょうか。現代社会における国民国家の役割の重要性を私も否定しませんが、国家が「シジフォスの如く難行苦行をエンドレスに引き受ける」べき理由は歴史的にも論理的にも見当たりません。

近代の失敗を厳しく批判する西部邁の言説もまた近代のパラダイムに縛られている。そのように言ってしまうのは皮肉に過ぎるでしょうか。


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