見出し画像

「つくらない」と言いつつ、つくりこんだ現代美術展〜『福岡道雄〜つくらない彫刻家』

作ることと、生きること。
あるいは生きることと、作ることの関係
あるいは無関係
こいつがいつもやっかいなのだ。
(『福岡道雄〜つくらない彫刻家』展フライヤーより)

大阪在住の彫刻家、福岡道雄は「作ること」と「生きること」との関係をめぐって試行錯誤をつづけてきた作家であるらしい。そのあげく、2005年には「つくらない彫刻家」となることを宣言したのですが、それ以降も何やかやと作品を発表してきました。

本展は、彫刻家を志した1950年代から現在にいたるまでの福岡の制作の軌跡を紹介するものです。6つのセクションに分かれていて、時代ごとに作風が変わっているのを見てとれます。それは創作者にとっては嫌悪すべき自己模倣を回避しようと活動してきた道程をあらわしているとも言えるかもしれません。

[第1章]彫刻らしきそれを創ろうとと思えば思う程、真実らしい仮面をかぶった偽作が出来る
[第2章]空中で、もうだめになって、地上へ舞いもどることもできないし、だからといってもっともっと高く舞いあがることもできないでいる毎日の僕達なのだ
[第3章]僕の眼に反射する光像はブラックだ
[第4章]魚の水槽の水を変えるべきか、それとも彫刻を作るべきか
[第5章]中心の無い彫刻、あるいは無数に中心のある彫刻
[第6章]なに一つ作らないで作家でいられること、何も表現しないで作家として存在できること

とりわけ[第2章]のフロアが印象的でした。バルーンや人間のオブジェが中空をただよっている作品それぞれに計算されたライティングがほどこされ、そのシルエットが壁面に映し出されているのがおもしろい。彫刻作品が光と影の演出によって、いっそう複雑な相貌を現前させているというわけです。
こうしたディスプレーのしかたは別段珍しくもありませんが、彫刻をつくらないどころか、見せ方までも周到につくりこんでいることが明瞭に伝わってくる展示です。このフロア全体が一つの「作品」なのだといってもいいかもしれません。ここだけが写真撮影可能になっています。

福岡の変貌の軌跡を見てまわった最後のフロアでは繊維強化プラスチックを使った何の変哲もない「つぶ」が提示されているのをいかに感受すればよいのでしょうか。〈つぶ3つ〉とか〈つぶ7つ〉とか題されたそれらの作品は、様々な思考=試行を経たうえでの一つの到達点というにはあまりに素っ気なく、諧謔を感じさせもします。
「空中で、もうだめになって、地上へ舞いもどることもできないし、だからといってもっともっと高く舞いあがることもできないでいる毎日の僕達なのだ」という苦しげな境地から解放されたというべきなのでしょうか。それとも創作にまつわる思念がより小さく凝縮されたものなのでしょうか。シンプルな作品ゆえになおさら私たちの想像力を刺戟してきます。

三浦雅士が『人生という作品』という批評集を出したのは、2010年。芸術家とその人生との関係は、当事者のみならず鑑賞する側にとっても考察すべき問題とされてきたのです。福岡の葛藤は古くて新しいものでしょうが、その起伏に富んだ奮闘ぶりには共感とも違和感とも名付け得ぬ不思議な力を感じました。

このような現代美術に遭遇すると、評価の定まった古典的な作品だけでなく同時代の作家たちの創作活動にももっと関心を寄せていいのではないかと心から思います。

*『福岡道雄 つくらない彫刻家』
会場:国立国際美術館
会期:10月28日~12月24日
主催:国立国際美術館

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?