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生き残った者たちの苦悩〜『紙屋悦子の青春』

敗戦の年の春。両親を空襲で失ったばかりの娘、紙屋悦子(原田知世)は、鹿児島の田舎町で兄夫婦(小林薫・本上まなみ)とともに、慎ましく暮らしていました。ある日、兄は見合いの話を悦子に勧めます。見合いの相手は、悦子が秘かに思いをよせていた明石少尉(松岡俊介)の親友、永与少尉(永瀬正敏)。
特攻作戦に志願することを決意していた明石は、最愛の女性を親友に託そうとしたのです。傷心を抱えたまま、永与との見合いに臨む悦子。そして、永与の誠実さに好感を抱く悦子。
出撃前夜、悦子に別れの挨拶に訪れ、満開の桜が散る下を去っていく明石、それを見送る悦子……。数日後、明石から出撃直前に託された悦子への手紙を、永与が届けにくる。そして言うのでした、「あいつの分も私はあなたの事ば、大事にせんばいかんとです」。

話の筋立ては、当時にあっては別段珍しいものではないでしょうが、「自由恋愛」の現代人からみれば女性を友に託すという思いに違和感を覚える者もいるでしょう。実際、封切り当時、今日のフェミニズム的な観点からこの映画の男たちのありようを批判する論評をいくつも見聞しました。私は戦前戦中の男尊女卑的な風潮をもちろん肯定しませんが、現在の価値観をそのまま過去の物語に登場する人物に当てはめて糾弾する態度にも今ひとつ共感できません。そもそも当時の男たちの心情もまた、ある意味では戦争によって生み出されたものではないでしょうか。

愛する者を桜の下で見送るという舞台設定も、むしろ紋切型といっていいものです。けれどもこの作品には、その「弱点」を凌駕してあまりある映像の強度とエレガンスが備わっているように思います。登場人物たちが交わす何気ない会話に漂うヒューモアも、この作品に温かい息吹を与えています。
また、冒頭、老夫婦が病院の屋上で話をしているシーン、やがて回想へと至る二人の会話は、ややもすると冗長でカッタルい感じがしないでもありません。けれどもこれが本作のリズムであり時間感覚なのだと知らぬ間に納得させられ、あとは、ただ現前する映像に身をゆだねるばかりとなったのでした。

悦子と明石の別れの場面、最愛の男性を戦場へと送り出す悦子の「敵の軍艦を一隻でも多く沈めて下さい」という型通りの言葉の行間に込められた万感の思い。その言葉を胸に、もう帰ってくることはない祖国の土を踏みしめて立ち去っていく明石。表まで見送っていけば、という兄夫婦の言葉に逆らう悦子、兄夫婦の語り合う画面の外から聞こえてくる悦子の嗚咽に、兄夫婦も観客も充分すぎるほどの納得と共感をおぼえ、また戦の時代の残酷さを胸に染み込ませるのではないでしょうか。

この作品が何より好ましいのは、今日ではしばしば映像の弱さを補完する手段に堕している音楽の一切が斥けられている点です。だからこそ、女性たちがお茶を注ぎ込む音や手紙を認める時のペン先の音が、艶めかしく、時には官能的にさえ聞こえてきます。柱時計の定時を示す音や機関車の汽笛、鳥のさえずりなどが、会話のとぎれた合間合間に、さりげなく、しかし絶妙のタイミングで差し挟まれます。
そして、悦子が、永与とこれからの長い人生をともに歩んでいくことを確信したとき、聞こえてくる音は……?

主演の原田知世が、素晴らしい。デビューして間もない頃、『時をかける少女』や『愛情物語』で接した彼女の風情は何やらこまっしゃくれた感じがして好きになれませんでしたが、時を経て、よき脚本と監督に恵まれ、まるでワインが熟成するように、時代に翻弄されながらもたおやかに生きた女性像を体現しています。
不器用な男を演じる永瀬正敏も良い味。松岡俊介の存在は、この秀作には欠かすことはできなかったでしょう。彼らの行く末をそばで見守る兄夫婦役の小林薫・本上まなみも嫌みのない善良さを表現して過不足がありません。

残念ながら、本作が黒木和雄の遺作となりました。
戦争レクイエム三部作『TOMORROW/明日』『美しい夏キリシマ』『父と暮らせば』のあとに続いたこの作品を観れば、晩年の巨匠がいかなる思いでメガホンをとっていたか、いやがうえにも浮かびあがってくるでしょう。戦争で死んでいった死者を悼みながら、残された者がいかに苦悩し生き続けていくか。これが黒木晩年の主要なテーマでした。

黒木和雄自身、祖父母とともに住んでいた宮崎県で学徒動員され、沖縄から飛来したグラマン機の攻撃で学友10名を失い、ノイローゼになったことはよく知られています。友を戦争で失った主人公たちの煩悶は、そのまま監督自身の煩悶であったことは疑いをいれません。

平和はつらいものだがそれに耐えねばならない、と述べたのは仏文学者の渡辺一夫ですが、黒木和雄ならばそれを言い換えて次のように言うのではないでしょうか。

「生き延びることはつらいものだが、それに耐えねばならない」と。

時代は、今、ひたすら平穏な世界を希求したこの監督の思いに応えているのでしょうか?

*『紙屋悦子の青春』
監督:黒木和雄
出演:原田知世、永瀬正敏
映画公開:2006年8月
DVD販売元:バンダイビジュアル

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