やっぱりいらない東京五輪_Fotor

〈参加型権力〉に抗するために〜『やっぱりいらない東京オリンピック』

◆小笠原博毅、山本敦久著『やっぱりいらない東京オリンピック』
出版社:岩波書店
発売時期:2019年2月

2020年東京オリンピックについては、招致活動の段階から反対意見が少なくありません。開催が決まった後も返上を主張する声があちこちから聞こえてきます。

本書は岩波ブックレットの一冊で、五輪が日本社会に及ぼしている/及ぼすであろう影響についてしっかり考える基本的な材料を提供するものです。共著者としてクレジットされている小笠原博毅は文化研究、山本敦久はスポーツ社会学を専門とする研究者。

もっとも今さら東京五輪の開催を揺るがすようなスタンスには当然ながら反論が予想されます。一度決まった以上は「後戻りできない」のだから、「新しい発想で」、「別の楽しみ方を」探るべきではないか──という一見前向きな意見がその代表です。それこそが大人の態度だと考える人も多いでしょう。
本書ではそういう人を「どうせやるなら派」と命名し、やはり批判の対象にしています。そのような態度は「二〇二〇年東京大会を開催することの矛盾や問題を覆い隠す」。

 このような、オリンピックを開催するためには不都合な真実は見て見ぬふりをし、「どうせやるなら」と「参加」するあり方が拡散し多様化することによって、オリンピックとは誰が準備し、誰が主体で、誰が責任をもって開催するのかという、あらかじめ明らかにされていてしかるべき答えがますます曖昧なものになっていく。(p15)

本書で五輪批判の論点となるのは、以下の四点です。

復興五輪を掲げることの欺瞞と経済効果への疑義。
参加と感動をうたうことによる権力の作動。
暴力とコンプライアンスの関係をめぐるオリンピックの支配。
言論の自主統制と社会のコントロール。

経済効果については当初から疑義を呈する声は多い。アメリカの政治学者ジュールズ・ボイコフは五輪費用をめぐる際限のない経費膨張を「祝賀資本主義」と呼んで批判的に論じています。コストに見合うだけの経済効果が得られるかはまったく保証の限りではありません。投資回収がうまくいかなかった時、債務を引き受けるのは公金を初期投資した公共セクターです。民間企業への不利益は最小限に留められます。

東京五輪では多数の無償ボランティアが募集されています。参加を呼びかける声は外見上は強制的ではありません。そこでは、経済的見返りではなく「やりがい」や精神的報酬などが強調されます。
成就する保証もない「夢」や「希望」に人びとが賛同していくからくり。社会学者の阿部潔は、その矛盾を埋めるのが「感動」だと指摘します。現実の不満を未来へと先延ばしにして、将来の感動を約束し、夢や希望といった喜びの感情を投企させる仕組み。──本書ではそれを「参加型権力」と呼び、批判します。市民を無償労働に駆り立てながら、一方で莫大な利益を目論む民間企業が存在することに違和感を感じる国民は多いでしょう。

スポーツの祭典としての五輪が現実にどのような影響をスポーツに与えてきたかを正面から問う議論もなされています。前回の東京五輪がもたらした五輪至上主義を批判するくだりにはとりわけ説得力を感じました。

 五〇年代の後半、まさに東京オリンピックの開催が決定する時期になると、自由や自治や個性に向けられていたスポーツは方向を変えはじめる。戦前の軍国主義を反省せずに、再び競技性の重視や競技力向上へと舵が切られていくのだ。(p42)

その過程で、競技力向上の末端の舞台となった学校の部活動に、戦前に競技をしていたOBたちが指導者として参入してきたといいます。戦前の軍国主義的なスポーツ観が戦後に入り込む土壌が出来上がったのです。勝利至上主義や競争原理という文脈においては、暴力は「熱血指導」などのフレーズとともにむしろ美談として語られ、根性主義を美化してきました。

2020年東京五輪では、「勝利至上主義」「上意下達の集団主義」などの古臭いスポーツ観は一掃すると関係者によって言明されていますが、それがそもそも過去の五輪によってもたらされた風潮だということはすっかり忘却されています。あるいは忘れたふりをしています。
五輪はスポーツにおける暴力を制御したり意味づけたりする力をもってきました。「昨今のコンプライアンス支配は、オリンピックによるスポーツの支配の一形態でもある」のです。

五輪をめぐる言論の自主統制に関する論考は著者自身の体験談も盛り込まれているのが興味深いところです。通信社配信の記事で五輪に批判的な談話をしたところ一部の紙面では割愛された事例を引き、「オリンピックそのものの是非を問う言論は存在感を薄めざるをえない状況」が作られていることを指摘しています。

またネット上では盛んに論じられていることですが、四大全国紙が東京大会のオフィシャル・パートナーになっているのはやはり大きな問題だと思われます。本書でも「様々な問題点や疑問点を問題提起し、論じることが期待されているはずの言論メディアにとって、その機能と役割を自ら制限する足かせとなっているのではないか」と疑義を呈しているのは多くの読者の気持ちを代弁するものでしょう。

何はともあれ、本書の意義は、当初の理念から逸脱して肥大化してしまったオリンピックについて再考するための資料というにとどまらないものだと思います。やや大きく構えて言うならば、動き出したら止まらない日本の政治に一石を投じる意味でも、また同調圧力の強い日本社会の風通しをよくするうえでも、本書のようなブックレットが世に出ることは歓迎すべきことではないでしょうか。

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