どうして君は殺してはいけないのか
とんでもなく可愛い我が甥っ子。
君は何を生き急いでいるのか、やたら成長が早い。
まだ歯も生えていないと言うのに掴まり立ちを行う。
もう既に自我を身につけているかのような振る舞いを取ることもある。
何を生き急いでいるんだね、マイスイート甥っ子よ。
その調子で行けば、いずれ君は社会に投げ込まれるだろう。
考える力を身につけた君に、君の両親は倫理を教えるだろう。
人を傷つけてはいけません。
人の物を取ってはいけません。
人を殺してはいけません、と。
君の両親は「いけない事だから」と教えるだろう。
悪い事だからやってはいけない。その通りだ。至極正論である。
だが、腑に落ちない部分もある。そうだろう?
いけない事だからで納得するのはただの暗記と変わらない。
喜びたまえ。俺は君の「わるいおじさん」だ。
俺がこの歳になって分かった事を、こっそり教えてあげよう。
衆人と言うのは、とかく省略したがる物だ。
人を傷つけてはいけません。
ここには、省略されている言葉がある。
いいかね、愛する甥っ子よ。隠された言葉を露わにした正式な文言は、こうだ。
「人を勝手に傷つけてはいけません」。
省略するのは良くない。本意が伝わらない。
そうは思わないか?
ボクシングと言うスポーツがある。
グラブを嵌めた人間がお互いを殴り合う野蛮極まりないスポーツだ。
人を傷つけてはいけないのなら、このスポーツは成り立たない。そうだろう?
しかし彼らボクサーは他人を殴って屈服させるために日夜その拳を鍛えている。何故許されているのか?
その答えは簡単。彼らはプロボクサーになるにあたり、契約書にサインをしている。
ボクシングの性質上、怪我をする事もあれば死ぬ事だってあるが、それを認識した上で活動しますよと言う項目があるんだ。
つまり、「勝手に人を傷つけている訳ではない」んだ。
では、このボクサーと言うスポーツマンが適当にそこらの一般人をひっ捕まえて「これはボクシングだ」と言いながら人を殴ったらどうか。
……そうだね、同意の上で行われている行為ではない。勝手に人を傷つけている。これは良くない。
ではさらに、このボクサーと言うスポーツマンがテレビ局からお金をもらい、叩かれる事を同意している芸人をボッコボコにしたらどうだ。
そう、勝手に傷つけた内には入らない。何故なら同意しているのだから。
大事なのは「同意しているかどうか」。つまり勝手にやっている事なのかどうかだ。
……殺してはいけない理由だったね。
別に脇道に逸れた訳じゃない。これは順番が大事な話なんだよ。
命とは現象であり、状態だ。
殺すとは、生命活動と言う現象を止めて、生きている状態を変質させる事だ。
一度死んだら生きている状態には戻らない。例外はあるが、今は横に置いておく。
つまり替えが効かないんだ、命は。
貸し借りも出来ないし、マリオの自機のように余剰に持っておく事も出来ない。
自分から見て、他人の命はそこまで大事ではない。奪える物でもないからな。
だけど、そいつから見た自分の命は替えが効かない大事な物だ。
それはどれだけお金を積まれようが手放せないくらいの価値ある物だ。
殺すと言うことは、他人が何があっても渡したくない物を盗むのと同じだ。
そう、最初に言った人の物を取ってはいけませんと言う奴だ。
いや、「人の物を勝手に取ってはいけません」かな?
人間は替えが効く物を売り買いして生計を立てている。
畑に生えてる米は替えが効く。だから売られる。
作られた服は替えが効く。だから売られる。
怪我しても治る……つまり、無事な体の替えが効くから殴り合うスポーツも出来る。
肉や魚? これは残酷な言い方だが替えが効く。食べるために育ててる訳だからな。
では何故、替えが効く物を売り買いしてまで生きるのか。
それは替えが効かない物を維持するためだ。
替えが効かない物は売り買い出来ない。命がその際たる例だ。
そういう物は、得てして大事に扱われる。
替えが効く物を失って、替えが効かない物を守っているんだ。
甥っ子よ、君も替えが効かない物の一つだ。
我が妹が腹を痛めて産んだ大事な命だ。だから大事に扱われている。
他の誰かも、自分にとっては替えの効く存在であっても、別の誰かにとっては替えの効かない存在である事だって大いにある。
人を勝手に傷つけてはいけません。
健康は替えが効く資産だ。
傷つけるという事は、その資産を盗むことに等しい。
人の物を勝手に取ってはいけません。
人の物は替えが効く資産だ。
蓄えられた資産を盗んでしまうと、替えが効かない物を維持出来なくなってしまう。
人を殺してはいけません。
それは誰かが替えが効く物を失ってでも保ちたかった物だから。
長ったらしいが、結局のところ、一つに集約する。
「替えが効かない物を、誰のものであっても、尊重しなさい」だ。
君の家に猫がいるだろう。デカい奴だ。
アイツが居なくなったら嫌だろう? 替えが効かないとはそういう事だ。
父や母もそうだろう。じいじも替えが効かない。「わるいおじさん」もそうだ。
そういう物を、大切にしてやりなさい。
逆に、甥っ子よ。君の替えの効かない物を蔑ろにし、奪おうとする人間も出てくるだろう。
そういう時は戦いなさい。
何、替えの効かない命を張れと言ってる訳じゃない。
替えの効く物で応戦すればいいんだ。
その方法が分からなければ、教えてあげよう。
なあに、「わるいおじさん」の知恵は替えが効く資産だからな。
そうだな、とりあえず……ボクシングでも覚えてみるかね?
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