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採用試験の模擬授業をする前に。

4月に入り、日本語学校では軒並み新学期を迎えている。
新しく異国からの留学生、新入生を多く迎える時期であるが、同時に新しく日本語の先生としてのデビューを果たした人々にとっても、生活が変化する時期でもある。新しい先生にとっても、新入生にとっても、まず環境に慣れることが一番ではないかと思う。できるだけ右往左往するということは避けたい。

一方で、せっかく養成講座を修了したのに、日本語学校の面接と模擬授業で不採用になった、という相談のメールがよく来る。模擬授業の出来も悪かったので、次回の学校でする模擬授業の教案も見て欲しい。そのような依頼も、やはりある。

自分が実技のクラスや教育実習を担当した方々だから、何かの役に立ちたいとは思うのだけれど、卒業された方の一人一人、就活の模擬授業について個人的に相談を伺ったり、アドバイスをすることは立場的に難しい。申し訳ない気がしている。

しかしながら、僕自身はと言えば、当時何をしていたのでしょう?
日本語学校の採用試験、模擬授業で失敗したケースは、まぁ少なくはない。何やってたんだろうな、という恥のかき捨てみたいなことは、性懲りもなく繰り返していた時期があった。今にして思うと「よくもまあ」という思い出の行進だが、そのような時期が何とか終息するのは、いくつかのことに気がついてからである。その気がついたいくつかのことについて、以下に触れてみたい。

【1】自分が準備した教案通りに無理に進めようとしていないか。


採用の模擬授業という舞台の為に、何度も首を捻って例文と導入を考え、展開の教材・教具も準備したのに、思惑通りにならない。
加えて、学生役を演じた専任や職員に突拍子もない質問をされ、そこで往生して暗い気持ちになった、など。模擬授業を妨げられることはよくある。
しかし、無事採用後も教案通りに進む授業が、日々の現場でどれだけあるでしょうか。採用試験の模擬授業はクリアできても、採用後の現場の授業で悩むことの方が遥かに多いのである。
「この人、うちの学校で、うちの学生たちと長続きできるかしら?また、育成するに値があるかしら、耐えられるかしら?」という目で見られていることを意識して欲しいのだ。

採用担当、学習者役の教職員達は授業のスキルも見たいのだが、一方で外国人学習者との接し方、寄り添い方も見たい、見せて欲しいと思っている。だからそこで苛々したり、困ったような表情は見せてはならない。
どんな質問でもよござんす。話聞きますよ、という感じで前に出ないと、終了ゴングが鳴っている。口頭の面接より人柄が見えやすいということを意識することが必要だし、そこが教案に見えない大切なスキルなのだ。

【2】非言語的コミュニケーションを意識しているか。

終始笑みを絶やさなくてもいい。要所要所、一人ずつ発問して名前を読んだ時に、軽く笑みが作れているか。そのイメージが自分の中で浮かび上がっているか。また学習者役の人々と目を合わせているか(そのふりだけでもしているか)。冷静であろうとして無表情になっていないか。また逆にはしゃいではいないか。

持って生まれたもので、非言語的なコミュニケーションが上手という人は確かに少なからずいる。けれど、これも教案には現れないスキルである。自分は不得手なのでそこには訴えない、という策は一度横に置いて、自身にできることを研究したい。一番良いのは、養成講座の模擬授業で、感じの良かったクラスメイトの授業を思い出すこと。これしかない。連絡がとれるのなら愚痴ってみるのが一番良い。但し、ここでは、授業の組み立て、教案の作成のヒントをおこぼれで頂こうと考えてはいけない。Takerというのは好かれない。

【3】採用されることだけに意識が向いていないか。良い印象を与えることだけに気をとられていないか。

以下、思い出した(思いついた)ことを書き連ねる。

①授業とは関係のない話をする。
②長々と話す(語る)。
③インパクト狙いに走り、導入や例文が授業で取り上げている項目からかけ離れて、学習者の日常とは結びつかなくなっている。サービス精神を見せているつもりでも、そこで授業を分かりにくくさせており、質問の種になっているということに気づきたい。
④未習・既習語が多く、扱う項目の前後の文法との結びつきを研究している様子が見られない。
⑤パワーポイントのスライドが凝りすぎていて、また板書や手で持つ教具の使用がない。「パワポがないと授業ができないんじゃないか?」と思わせてしまうような構成になっている。

これらのことは、採用する側からは「それ、期待していないんですけど」という判断につながりやすい。「それ、今聞きたいことじゃないのに」というフレーズが一言二言でも積もってしまったら、与えられた時間は過ぎていく。何とか良い印象を与えようとする意識が強くなればなるほど、授業とはかけ離れていく。

自分のしたいことが相手のしたいこととは限らない。繰り返すが、無理に興味・関心を引こうとして、大きな話題で導入をしようとしていないか。

例えば、先日旋風を巻き起こしたWBCの日本代表について、選手の名を挙げて導入や例文を考えても、学習者が野球に関心を持っていなかったら、もしくは野球が知られていない国の出身者だったら。それが学習者思いの授業になるか。まず、スターティングの導入でこぼれる留学生が生まれることになる。それよりも、日常的、身近にある状況を再現して、そんな時に、この言葉を使うのかと、役に立つ知識の供給を心がけたい。

以上、採用試験の模擬授業について、自分が当時、失敗として繰り返していたことを思い出して、書き起こしてみた。他にもたくさんしくじったことはあるのだけれど、それは、僕自身、個人の性格に原因する気がするし、またすぐに思い起こせて原因も納得できるものと言ったら、これらの3つである。

繰り返すが今回、僕が書き出してみたことは、あくまで僕個人の失敗に基づく考えである。もしかしたら、役に立つ人もいるかもしれないし、大して参考にならないのではないかという気もしている。
ただ、授業は1人でするものではないし、相手がいてこそ成立するものだということ。そこに少しでも近づきたいのです。

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