成長を強要される空気の正体とはー成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋
以前、「瞑想の上達ってなんだろう」いう記事を書きました。
そもそもこの記事を書いたのには、私自身の「上達」や「成長」の捉え方にひどい歪みがあると感じているからです。
一言で言うならば「脅迫的に」成長を求める姿勢。
成長を感じられるようなことをしていなければ、ひどく自分が価値のないように感じるのです。
こんな感じで日常を過ごしてしまいます。これは10代から、ずっと治らない心のクセです。
私はこのクセをずっと「自分特有」のものだと考えていました。
けれど『成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋』を拝読し、感じ方に強弱はあれど、どうやら私だけが感じている感覚じゃないのでは?と思うようになりました。
知性発達学の第一人者である加藤洋平氏の著書。
思想家のビョンチョル・ハン氏と神学者ポール・ティリック氏の資本主義に対する洞察を下敷きに、過度な「新自由主義的資本主義」が内包する問題点と、そこから私たちを守る処方箋を提示してくれます。
このキーワードにピンと来た方は、ぜひ読み進めてみてくださいね。
私達をとりまく「空気」はどこからくるか?
「3ヶ月で稼げる●●になろう」
「自己プロデュースをして、もっとかわいくなろう」
「AIと代替の効かない仕事をしよう」
そこかしこで見られる「今ではない自分への成長」を促すメッセージ。
こういったメッセージはもはや空気と化していますが、どこか成長を強要されている、、、じわじわとした圧力のようなものを感じませんでしょうか。
このツイートは以前バズったものです。
上京してきた女性にインタビューをすると「電車の広告が(色々と要求されているようで)怖い」という返答が。
このツイートに対しては共感の反応がたくさん見られましたが、なかには反対意見もあり「意思が弱い」「自我がない」というコメントが散見されました。
もちろん共感も反対も色々な意見があって良いと思うのですが、反対意見自体にも「意思を強くもたない人間はダメだ。強い人間になれ」というメッセージ性を感じ取れます。
それは自分の中に弱さを許さないと同時に、社会にあふれるメッセージに疑問を挟むことを許さないような、そんな諦めのような態度にも感じられます。
『こうゆう社会なんだから、それにいちいち反応していたらしょうがないよ。』といった形で。
でも「こうゆう社会」はどこから発生しているのか。
そんなことを本書ではつまびらかにしています。
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現代の私達は「新自由主義的資本主義」と呼ばれる社会に生きています。
「新自由主義」はネオリベリズムと訳せるようなので、以後「ネオリベ資本主義」とします。(漢字が多いので…笑)
定義としては『国家による介入をできるだけ小さくし、福祉や公共サービスを民営化していくことを良しとし、大幅な規制緩和を掲げながら、多くの事柄を市場の競争原理に委ねること』を前提とした仕組みです。
日本では小泉純一郎政権時に「郵政民営化」が行われたことが、分かりやすい出来事かと思います。
著者である加藤氏はこの「ネオリベ資本主義」を構成している2つの考え方が現代社会の「成長を強要する社会」を作り出しているのではないかと述べています。
もちろん達成主義、能力主義の良い面もあります。
その点にも触れながら、現代社会には偏った主義が蔓延していることに警鐘を鳴らしています。
ハッスルカルチャーで疲弊する現代
ネオリベ主義を捉える上で、私の中で自分ごととして捉えやすかったのが「ハッスルカルチャー」という文脈。
ハッスル(hustle)は「急がせる、せき立てて~させる」のような意味を持ち、ネオリベ主義の生活様式を特徴づけるものとして紹介されています。
簡単にいうと、常に行動に駆り立てられいる状態。
知識や情報をできるだけ多く詰め込み、なるべく短時間で「成果」と呼ばれるものを追い求めようとします。
私自身もこの「ハッスル状態の自分」が大好きでした。
行動的に効率よくやる自分を讃えていたし、頑張ることによって目標に近づく感覚が自己肯定を生み出していました。
この行動に伴う自己肯定感があるからこそ、そこに「つけいる」形で人のエネルギーを搾取する仕組みができあがっていると作者は述べます。
しかし、裏を返せば何か行動ができなくなると自己否定に走るということ。
また、以前の私もそうでしたが「努力すること」を当たり前と捉えるようになると、その基準で人と比べるようになりがちです。
何かで成果を得たとして、本当は様々な要因(身体的特徴・環境・人間関係・精神状態など)によって成し遂げられたことなのに「できない人は努力が足りない」という思想に陥る危険性があります。
ツイッターでの強さを求める言葉の裏には「自分もできているのだから、あなたもできるだろう」という思想が見え隠れするのです。
奴隷の主人でありながら自身が奴隷である構造
また、近代以前では「強要するもの」と「奴隷」と役割を持った2人の人間でしたが、現代社会では「自らが人生意思決定の主人でありながら自らを酷使している」状態であり、自己搾取をしている状態だと述べています。
これは前述した「自己肯定」とともに複雑に絡み合っている、ある種の罠だなぁと感じてしまいます。
自分という奴隷が思ったように働かないと、自分の中にいる主人がさらに自分をせき立てるのです。
そうして主人が決めたルールを守れない私はダメであり、ルールに沿って動けている自分にだけ自己肯定感を見出すというサイクルが強化されていきます。(私の思考回路そのままですがな!)
自己完結しているからこそ、そういったことが起きがちな社会構造に身をおいていることが忘れ去られ、自己にばかり矢印が向いてしまうのです。
透明社会とは?
社会構造の問題点の1つとして取り上げられるキーワードの中に「透明社会」という言葉があります。
これは、全てが可視化(数値化)されている社会のことを指しています。
可視化や計測できないものは商品になりづらかったり、価値が分かりづらい点が「ネオリベ資本主義」とマッチしないため、本来は可視化しなくても良いものまで極端に見える化されていることを危惧しています。
私は自分でもSNS中毒だなぁと思うのですが、SNSはこの「自己搾取」と「透明社会」が如実に体感できる場所だなと思います。
人々の価値は「フォロワー数」や「いいね数」などで測られ、そこに値付けがされます。
そして、人々が「いかに稼ぐか」「いかに自分が優れているか」「いかに良い情報を与えているか」を(声には出さずとも、自覚せずとも?)競い合っています。
そしてそういったことを行ってる多くの人々は「自己で自分をプロデュースし、自分で自分を商品化」しており、まさに自己搾取が行われているのです。
自己搾取の面だけでなく、そこには実際に仕事が生まれているので資本の循環という点では良いことです。(本来は集客が難しかった人がツールを手に入れて宣伝ができるという意味において)
しかし、その構造が行き過ぎた例を見ると、人々が本来持っている人間らしさのようなものが削がれてしまい、どんどん機械のようになっている感覚を覚えます。
宣伝のために商品を過剰評価したり、いきすぎた誹謗中傷、フォロワーほしさの行動など、人を「人」ではなく「デジタルデータ」として扱うようになっているのかもなぁと何度も感じました。
そういった光景を見るたびに私の中の何かが削がれていく感覚になります。
成長疲労社会への処方箋とは
さて、たくさんの問題点を挙げてきました。
そういった空気をどこかで「しんどい、つらい」と思っている方にとっては、本書の「処方箋ワーク」がヒントになるでしょう。処方箋ワークでは、成長疲労社会を乗り切るためのワークが18個も紹介されています。
私なりに処方箋をまとめるのであれば、まずは空気に自覚的になることが大前提なのだろうと感じます。本書は心からその手助けとなりました。
私たちをとりまく構造・空気を対象化できたからです。
そして私にとっては、特に「肯定性」や「できること」ばかりを追い求めないことが大切なのかなと思います。
ただ、そうやって長いこと生きてきてしまった私にとって「言うは易く行うは難し」です。
最近は1日に平均で2.3時間しか働いておらず、ようやく「仕事(勉学)という時間の中に私の生活がある」という意識から「私の生活の中に仕事がある」という感覚に徐々にシフトしてきました。
奴隷の主人は
「もっと働かなくていいの?」
「何か将来にためになることをしていないとおいていかれちゃうよ?」
とまことしやかに不安の種を蒔き続けます。
そんな時は「将来は分からない。それでも私は今、こうして生きている」とつぶやき、生きている感覚(身体感覚)に意識をもどします。
社会に巻き取られそうになる意識を一旦戻します。
フリーランスだからこそ、たっぷりと時間と戯れることができる現状ですので、そんな今を未来の不安でいっぱいにせずに、生活できている今に感謝したいと思います。
最後に注意書きとして付け加えておきたいこととして、本記事では「成長疲労社会」の問題点をたくさん挙げてきましたが、負の面やいきすぎた面を問題視しているだけで、新資本主義のすべてを否定するつもりはありません。
本来、人間は成長したいという欲求や社会的な生物としての自我をもっているのが当たり前で、そこを否定しすぎてもまた変なことになる気がします。
本書ではその点において、こんな風に書かれています。
自覚をもちながら、自分の違和感や身体感覚の微細な変化に気づきながら、ゆるかやに生きていけたらいいです:)
▼試し読みがたっぷりあるので、気になった方はぜひ試し読みしてみてくださいっ
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