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【すりがらすの向こう】追いかけた背中と心の声

私は理学療法士
「re:habilitation(リハビリテーション)」
怪我や病気を患った状態から、元の生活に戻るお手伝いをする仕事。

父の背中を追いたくて、
憧れの人にもう一度お礼を言いたくて、
自分で選べた最初の選択が職業だった。


七光りはいやだ。


母からの虐待から守ってくれたのは父。
医師であり、責任感の強い、帰宅が遅い、大好きな父。
でも、自分のことを私の前だと一人称が「パパ」になっちゃう、かわいい父。

その娘にも高校生になれば進路選択は迫られる。
感情もなければ、自分で線路を選んだこともない私にとっての難題だった。

父は感情を失っている娘にきっと気がついていたのだろう。だから、新しい風を吹かせる起爆剤を準備してくれた。

当時の私にとっては突風であり、今でもその風は私の心に吹き続けている。

片手で数えられるくらいの場面しか覚えていない、けれどずっと忘れない。
父が連れてきてくれた、あるサッカー選手と話をする時間。

その人は言った。
「ネガティブなん?」

当時の自分のことは正直ほとんど覚えていない。
でも、
(この人にもう一度会って、お礼を言わなきゃ。)
そう思ったのは別れた後すぐに感じたのだった。

【選手の力になれる仕事】
父に聞いて知った、私にとって初めての分岐。
今の私へと繋がる進路決定の音が鳴った。

「お父さん、私さ、理学療法士になりたい。」

契機と挑戦


理学療法士になるべく、専門学校へ通う。
その中でスポーツに携わるために出来ることは、片っ端から挑んだつもりだ。その学校は学生トレーナーを育成することにも力を入れており、理学療法士科の授業が終わった後、学生トレーナー向けの講義を受講する日々を送っていた。

契機は思わぬ所から手を差し伸べてきた。

普段は話さないようなクラスメイトから
「陸上部の学生トレーナーを一緒にして欲しい。」
「クラスで1番、そう言うのやってるのはあなただから。」


(チャンスって準備すると向こうから来てくれるんだ……すご。)
(自分の知らないところで、自分って評価されてたんだ。)

とある大学の陸上部。
ボランティア学生トレーナーとしての活動が始まった。

練習はもちろん、記録会から大会の帯同。
手当てから、受診の促しまで出来ることは片っ端からやった。

陸上とはシンプルだが、種目が多岐に渡るものである。
走る・跳ぶ・投げるの奥深さをこの2年半で知ることとなる。

(この1つひとつの動作を分析できるようになれば、力になれる。)
(あの授業は、これの時に生かせる。帰ったら復習だ。)

学校での勉強により一層のモチベーションをもたらしたことだろう。

その後、国家試験を突破した私は、理学療法士となった。

単身。静岡へ。


祖母とも義母とも馬の合わない。
家を出よう。

女難の相が恐らくある私は、新卒で静岡県の病院へ入職した。
ある女性同期からは、「なんの苦労もなく育ったみたい」と言われる程度には一般人に紛れ込んでいたようだ。

(人のこと知らんでよく言えたもんだなー。関わらんとこ。)
なんて、一丁前に人の好き嫌いまで吐き出すようになっていた。

私は「整形外科疾患」のリハビリテーションが楽しくて仕方がなかった。
昼休みは菓子パン片手に文献を読み漁る日々を送った。
新しいことを学ぶのは楽しかった。
学んだことが誰かのためになるのが嬉しかった。

でもいいことばかりではないのがこの仕事。
結果が出なければ叱責され、知識の差を見せつけられることによる絶望。
社会人にもなればこれが普通と思っていた。
いわゆる、配属先ガチャなるもののハズレなんだと考えていた。

ある日、のちに夫となる彼氏が気がついた。
「どうして泣いてるの?」
どうにかこうにか仕事を終えて帰宅する際に、無意識に泣いていた。

医療従事者であるが故に疑う、自分の可能性。
「無意識に泣く」以外にも「希死念慮」「不安」「恐怖」「健忘」といった症状の数々。

(……毎日死にたいって思いながら生活するのって普通か…?)

上司にも相談した。
その時の上司は今でも憧れる、器の大きな上司。
「俺も受診したことあるから、行っておいで。」
背中を押す手は、大きくて温かかったのを今でも覚えている。

精神科へ受診。
医師から「理学療法士ならわかってるんじゃない?」
心が限界だと自覚させられる。
【心的外傷後ストレス障害(PTSD)】と名前が付いた瞬間だった。

障害の受容と現実


上司に診断名が付いたことを伝えると共に、服薬による副作用の影響を伝えた。最初は副作用の影響に振り回される日々を送っていたが、徐々に感情のコントロールが不安定になっていく。

今まで取り繕っていた、錆びた鎧が徐々に剥がされていく感覚。

自分の意見を表出すると泣く
納得のできない内容に対して怒りを口にする
自分の症状が改善するのかという行先の見えない不安

今までできなかったことができる。
それはとても幸せなことのはずなのに、
今まで見えていたはずのものが見えなくなっていく。

自分自身の体に、心に否定されている感覚。
『理学療法士は向いていないんだよ。』
『だって、繝ェ繝上ン繝ェできないよね?』
何を言っているかわからないことも多いが、底知れない恐怖があった。

私の病状は面談を行うことで、上司から上長へ共有されていたという。

上長から面談という形で呼び出される。
「感情のコントロールができていない」
「記憶の保持ができていない」
「これは患者様への影響を及ぼしかねない」
そう、指摘されたと認識した、その瞬間だった。

『縺雁燕縺ォ縺ッ縺ァ縺阪↑縺シ√>縺刈貂幄ォヲ繧√m��
比類なき絶望。
私の心を真っ赤な槍が貫いている。
もう頭の中は心の脅迫で満たされてしまっていた。

きっとその面談では、今後のことも話をしていたはずなのに。
何も、他は、聞こえない。

「もう、私には、リハビリはできません。」
上長の前で泣き崩れた。


それから、その病院ではリハビリテーションを実施することはなかった。



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