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【連載小説】 「私の味(サボール・ア・ミ)」(14) 愚かな想い

1994年、巡礼5年目の年。

 
(語り部より: 趣向を変えて、たまには、まずはじっくりロマンティック・ラテン歌謡の歌詞を堪能されて頭をムーディになさってから読み進めいただければと思います。この物語、シンイチの巡礼は、いよいよ佳境入りです。南米コロンビアの往年のヒット曲「ロクーラ・ミア」)
 
「愚かな想い(ロクーラ・ミア)」(歌詞部分抜粋訳)

「愚かな想い、あなたが私を好きになると思うこと
いつか、あなたも与えてくれると思って生きること
私が私の夢の中で生きてきたこの愛を

愚かな想い、あなたが私の残酷な運命を変えてくれると思うこと
もう私は既に多くの失望を生きてきたので
その苦悩に慣れてしまうと思うこと

なんという愚かなこと
あなたが光なら、私は永遠の夜
あなたが頂きなら、私は谷底
私の愚かな想いは、あなたがいつか私のものになってくれると思うこと」

https://youtu.be/sDPqyXQGPnk



窓の外には、ハドソン川の対岸のニューヨークのきらびやかな摩天楼が見える。

日本で言ったら東京に隣接する千葉か埼玉みたいな位置づけの、ニュージャージー州のホーボーケンにある小さなオフィス。

それが、94年にはいって駐在員事務所から米国現法に格上げされた、シンイチの勤める中小食料商社の北米拠点だった。

南米コロンビアのボレロの悲しい名曲「ロクーラ・ミア」 (愚かな想い)の入ったアルバムをウォークマンにつないだスピーカーで何度も何度も流しながら、誰も居なくなった夜のオフィスで、シンイチはひとり、残業していた。
 
もともと日本人2人にローカル3人で北米と中南米全部をカバーするという無茶な人員配置の駐在員事務所だったが、現法へ格上げとなっても総勢12人、普段でも手が足りないのに、この年はなぜかアルゼンチンやチリなど南米の取引先の倒産が相次いで、その処理に忙殺されていた。

親分肌の吉田現法社長は、「この事務所始まって以来の最大の危機到来。俺が全米をまわってこの小麦の在庫を処分しまくってくるから、おまえは南米に飛んで、出荷が止まってしまっている取引先への前払金を死にものぐるいで回収して来てくれ」と言う。

シンイチは、その年は夏にかけて、真冬のブエノスアイレスやアンデス山脈のメンドーサやお隣のチリへ1人で飛んで、現地の弁護士を同行させて資金取り立ての取引先行脚をしていた。催促状を突きつけにいくが、なかなか焦げ付いた資金は戻らなかった。事務処理ばかりが積み上がっていった。
 
夜10時。

シンイチは夕食代わりに、夕方マンハッタンのアポ先からの戻りに買ったドーナツの残りの2つを、冷たくなったコーヒーで胃に流し込む。ドーナツはシナモンとチョコ味。

「こんな生活つくづく嫌だな。体がチョコっとドウナッツてもシナモンよ」と駄洒落ひとりごとを呟くが、笑ってくれる人は誰もいない、夜10時のオフィス。シンイチの性癖、自慰的な駄洒落。

そういえば、留学時代のメキシコの下宿だと、部屋で勉強して夜10時頃にひと息つきにリビングへと降りると、TVを観てるグロリアおばさんとティナおばさんが「夜食タキートスちょっと食べちゃう?」と、ささっと野菜たっぷりのチキン・タコスをつくってくれたっけ、と思い出す。美味かったなあ、あれ。

今年は恒例のタコス巡礼もおぼつかない、と思う。そういえば、麻里からも6月に手紙もらったきりになっている。週末に手紙を書こうと思う。
 

1994年は、順調にみえたメキシコ経済も、後半にかけて大激動の年となった。メキシコ経済に係わってたビジネスマンたちには、最後にとんでもないショックに見舞われた年として記憶されることになる。

後年、「テキーラ・ショック」とも称された、12月のペソの固定相場から変動相場に以降した時に起こったペソの大暴落は、メキシコ、ラテンアメリカのみならず、世界中のエマージング通貨の暴落の引き金を引いて、さらにその大混乱は先進国通貨にも及び、ドル円が翌年春に記録的な80円台の円高をつけた遠因になったとも言われた。

1994年前半は、表向きには、メキシコ経済はサリーナス大統領のもと、93年APEC参加、94年のOECD加盟と正式なNAFTA加盟を実現して、千分の1にデノミしてドルに事実上固定させたヌエボ・ペソで経済を安定させて、自由主義経済での繁栄への舵取りが順調に進んでいるかのようにみえた。

しかしながら、その実、経済安定化のためにアンカー(錨)として固定させた為替はペソを割高にしてしまい貿易収支を悪化させていて、それを高めの金利を求めた国際的な短期資金が流入して支えるといういたって脆弱な構造に支えられていた。

また、ハーバード大博士号の経済学者で88年就任以来施政の舵取りをしていたサリーナス大統領にも、弟が麻薬カルテルのガルフ・カルテルとの関係が噂されるという致命的なスキャンダルが持ち上がってきていた。野党の大統領有力候補の暗殺事件もあり、政治は大揺れしていた。結局、サリーナス大統領は任期前に辞任を余儀なくされる。
 

仕事に忙殺されながら、あっという間に日々は過ぎていく。夏が終わる。

9月後半になると、ニュージャージーのある米国東海岸もだんだん秋めいてくる。森が鮮やかな色の紅葉の時期になっていく。

そういえば、シンイチが麻里に8月に出した手紙への返事も来ていなかった。
 

カレンダーは10月に入る。

エリカの最初の命日が、近づいてくる。

麻里に手紙を書く。

エリカの命日にメキシコに電話するが、麻里の下宿の電話は誰もでない。
 
そして、11月になる。引き続き南米と米国での仕事に忙殺される。


11月1日はメキシコでは死者の日。エリカも天国から戻って来てるかな、今年のグアダルーペの巡礼ももう既に10月に始まってるはずだと懐かしく思うが、メキシコのすべてが、なんだかもう戻ってこない遠い過去の記憶のようにも思えてくる。

一方で、自分の麻里への思いはまったく変わっていないと、シンイチは思う。

出会って5年目、お互いもう32才になった。今年、年末にでも行けたら、思い切って指輪でも持って行こうかと妄想する。
 
ロクーラ・ミア、私の愚かさ。ふと、冷静に自分を、現状を見つめて、茫然となる瞬間もある。お前ももう32才なんだぞ、という声が聞こえる。

会えないし、連絡もないので消息もわからない、物理的にそして具体的に感じられないことでその存在が抽象的になって行き、かえってそれが存在感を強めている。抗えない強い感情。思い込みの激しいストーカーのジェンダーも辛いよ、と自分のことながら、シンイチは思う。

でも、たった1年前、いちどだけ、彼女はしっかりと自分を受けとめてくれた。

それだけが、拠り所だった。あの夜、たしかに、彼女は性的にも感じていた、とシンイチは思う。

「ソラメンテ・ウナ・ベス・・・いちどだけ」か。

シンイチは、麻里はア・セクシュアルではないと思っている。ア・ロマンティックでもない、自分の想いがちゃんと届く相手だと思っている。

そして思う。ア・セクシュアルとかそんなラベル付けは、彼女には必要ない。彼女は不感症ではない。

なんだろう。なにか幼少時の体験が性的なことに対する嫌悪を深く植え付けていて、それが他人を愛する恋愛感情までもブロックしてしまっているというようなことがあるのだろうか?なにか自分にできることはないのだろうか?彼女をそこから救いだせないのだろうか?

少しづつだが、時を重ね、共通の思い出を重ねるごとに、お互いが近づいてきていると思っている。

彼女のことを一番わかっているのは自分だし、彼女も自分をわかってくれている。

お互いの持つ味をすこしづつ、お互いに身につけてきている。そうした感覚が、彼女にだんだんと恋愛感情に似た何かを呼び起こすのではないだろうか。

あるいは、信じたくはないが、ほんとうに生まれつき恋愛感情の起こらないア・ロマンティックで、恋愛感情や性的な関係を押し付けられることが苦痛になっているということがあるのだろうか?

そんないくつかの問いが浮かんできて、頭の中で結論なく堂々巡りしては消える。そして、また、現われてくる。何度も何度もでてくる。無為に時間は過ぎていく。

セクシュアリティの、ジェンダーの、焦がれる想いの、出口の見えない迷路。
 

11月半ばには米国では夏時間も終わり、東海岸では、急にめっきり冬めいてきて肌寒い日が続く。

11月第1週に出した手紙への返事も、全然こない。さすがにおかしい。
 

11月末、同僚のエレインが自宅での家族の感謝祭の夕食に呼んでくれたが、仕事で疲れているからと丁重にお断りをして、久しぶりに木曜日午後早いうちに家に帰って、麻里の下宿に電話してみようと思う。
 

まだ夕方だったが、南米出張のときに買ってきたベネズエラのラム酒をストレートでなみなみとグラスに注いで、それを机の上において、一口飲んでから、電話をかける。

ラムの強いアルコールと砂糖キビの糖分がアドレナリンを高めて勇気を与えてくれる。

ズズズズズ。

懐かしいメキシコの電話回線の呼び出し音。遠い過去に電話がつながったかのような、不思議な感覚。
 
「ブエノ?(もしもし)」大家さんが電話にでる。

「(セニョーラ、こんにちは。ご無沙汰してます。ハポネスのシンです。麻里のアミーゴの)」

「・・・アーィ、シン・・・コモ・エスタス?(シンなの・・・元気でいた?)」

「ビエン、グラシアス、セニョーラ。アオリータ・エスタ・マリ・エン・ラ・カサ?(ええ、どうにか。麻里は今いますか?)」

「・・・アーィ、ノー・・・コモ・デベリア・コンタールテ・・・(えっと、いいえ・・・どうお話したらいいかしら)」
 
セニョーラが、言葉を選びながら語ってくれたのが、こんな内容だった。
 

麻里は10月に引っ越して、もうこの住所にはいない。

引っ越し先については残さずにいった。

メキシコのどこかに引っ越した。聞かれても、自分も知らない。
 
シンイチへのことづけがある。

もし、シンイチが電話してきたら、自分が引っ越してしまったことを伝えて欲しいと。そして、手紙を渡して欲しいと言われていると。

手紙は預かっている。1年は預かっておく約束。手紙は、シンイチに頼まれても、絶対に郵送しないでほしい。シンイチが来たときに、手渡して欲しい。

それだけは絶対に守って欲しいと、強く言われているという。

(15章完結章へと続く)

 

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