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進化と記憶

割引あり

私たちは、命を乗せて次につなぐための乗り物であり、私たちの体にはそのための仕組みが備えられている。異性を好きになり、体によいものに対して快を感じる。栄養分の多い食べ物をおいしいと感じ、小さきものをいとしいと思う。命に危害を加える可能性のあるものを避け、あるいは積極的に排除しようとする。そこから正義感が生まれたり、普段よく接する相手に対する親しみや仲間意識が生まれたりする。

記憶に関しても同じように進化の過程で獲得した能力であることは間違いない。空間構造を認識し、頭の中に地図を描き、遠くにでかけても元の場所に戻ることができるのは、それを記憶する能力があるからである。巣を持ち、子どもがいて、同じ場所に戻らなければならないとすれば、目印になる物を覚えたり、遠くの風景から今の位置を判断したりする能力が必要になるだろう。私たちは、案内図や、案内板を見て行動することが多くなってしまったが、そんなものの使えない状況では、私たちが進化の過程で得た、記憶力や空間認知能力がフル活用されるはずである。私はアリやハチも、巣の位置を記憶する能力を持っていると思う。だから、働きアリや働きバチは、巣の周囲をうろついて記憶する時間を必要としているのだろう。

記憶には不思議な性質があり、感情が動かされたときのことを、鮮明に覚えていたりする。アドレナリンが大量に分泌された状況を記憶することが、生存に有利に働くためにそのような記憶の性質が発達してきたのだろうと思う。たとえば、たわわに実った果実をみたり、キノコのたくさん生える場所を見つけたりしたとき、私たちは鮮明な記憶を残して、また次の年も同じ季節になるとその場所を思い出したりしていたのだろう。

動物たちの行動の多くは記憶力によるものなのではないかと思う。例えば、鳥が巣を作るとき、自分が生まれ育った巣を参考にして、同じような場所に同じような巣材を用いて作っているのではないだろうか。ホッキョクグマの母ぐまが、初めて水に入る子熊を誘う様子を見ていると、まるで人間の母親のように、水の中は楽しいよと子熊に見せて、警戒心を解こうとしている。そんな行動ができるのも、自分がしてもらったことを覚えているからなのだろうと思う。親から愛情深く育てられれば、同じように愛情深く子育てできる場合が多く、そうでなければやはりどうしたらよいのかがわからずに、子育てに失敗してしまうことが多くなるのではないだろうか。

記憶というものは不思議なもので、重要なできごとはつい最近のことのように思え、そうでもないできごとはずっと昔のことに思えたりする。文字を使って書き残される歴史と、口承によって伝えられる歴史とでは、文字を使う歴史のほうが時系列を正確に反映できるが、本当に役に立つのは口承による歴史のほうなのではないかと思う。実際の時系列ではなく、生きていくうえで大切なことを直近のできごとであると感じるような記憶の方法が、進化の中で発達してきたのだろう。

私たちは柴犬の顔は見分けにくいが人間の顔は見分けやすい。そうした能力もまた、私たちの平和な生活を維持していくうえで、身近な個体、私たちに影響を与えやすい個体をしっかりと見分けて記憶する能力が発達してきたからではないだろうか。実際、我が家に来るスズメたちはまったく見分けがつかないが、それでも何の不都合もない。

興味深い動画を紹介しよう。

このクロネコちゃんは少し変わった子なのだが、ノゲシを覚えていて宝物のように思っていたようだ。理由はわからないが、この子を惹きつけるものがノゲシにあって、だからその場所を覚えていたのだろう。

私たちが持つ様々な能力は、肉体を持ち、命をつなぐ存在としての私たちが進化の過程で身に着けてきたものだけである。そういう物の見方をすると、経済活動や人工環境にばかり目を向ける今の私たちのあり方が、異様であることが見えてくる。私たちはナニカ理想を実現していくための存在などではないし、電気を使い、数字を操って、カネのために生きる存在でもない。他の動物たちと同じように、命をつなぐ乗り物にすぎないはずなのに、そんなことはすっかり忘れて、やれ権利だ、やれ環境保護だ、やれ民主主義だと教え込まれ、豪華な生活や有名になることにあこがれを持たされて、私たちのさまざまな能力が、命をつなぐ肉体としての存在に備わったものであることなど、通常は一生考えることなく過ごしてしまうことになった。

おそらく、カラハリ沙漠に住んでいた狩猟採集者たちのような生き方こそが、私たちの本来の生き方なのだろうと私には思える。そのように想定して見れば、今の社会の嘘が見えて来ることだろう。

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