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洗濯機と猫

 僕の家の洗濯機から猫が出てくる。僕が借りているアパートはたいした特徴もなく、相場にしては少しだけ安いかな、というくらいのちょっと古い部屋だが、だからって洗濯機から猫が出てくるなんていまいち納得がいかない。
 数週間前に一匹の猫を冷蔵庫の上で発見した時は、偶然ベランダを開けっ放しにしていたから、きっと外から迷い込んだのだろうと思った。野良猫のわりにはあっさり僕の腕に収まり、玄関のドアを開けてやるとそそくさと出て行った。僕としてはちょっとびっくりさせられたくらいで、迷い猫に対して不満や怒りは覚えなかった。むしろ、冷蔵庫の上は普段あまり掃除していなかったから、四つの手足に綿ボコリがついてしまったことを申し訳なくさえ思った。
 しばらくして、僕の部屋は二階にあることを思い出し、果たしてベランダから侵入できるだろうかと突然訝しく思ったが、猫は木を登ったりもするだろうから、地面を経由したのではなく高所からやってきたのかもしれないので、ともかく僕は冷蔵庫の上のホコリを取り、その日はそれで終わった。

 さて、それからの一週間、猫は度々部屋に現れた。もちろんベランダが閉まっていてもだ。しかも、大人しいのは相変わらずだが、最初に見た猫とは違う柄の猫ばかりだった。一度として同じ猫には会えなかった。
 「部屋に猫が湧いている」などと大家さんに相談したところで、彼は真面目に取り合ってくれるのだろうか。僕は、昔から話相手が困惑する顔を見るのが苦手だ。従って、もっと状況がはっきりしない限り大家さんには相談できない、と決意した。
 ありがたいことに、猫は僕の不在時に部屋に現れることが分かった。僕が部屋にいる間は決して出てこないのだ。その翌日、僕は外出する前に、もう何年も使っていなかったビデオカメラを設置した。
 三脚は持っていないから、適当に物を積み上げて、なんとなく部屋全体を映せる場所を探し、無事にカメラを固定してから、いつものようにドアを閉めた。古いカメラなのでそもそも無事に映せるのかも不安だが、ともかく少しでも手がかりが掴めれば良いのだ。
 僕がアパートの玄関を通る時、小さな女の子を連れた母親とすれ違った。お互い、小さく挨拶した。ここのアパートの住民は表札にもポストにも名前を載せないので、彼女たちを呼ぶ名前は分からないが、ともかく隣人であることに違いはない。数ヶ月前、ずっと空き部屋だった所に越してきた。いつも二人しか見かけないので、父親はいないのだろう。
 彼女たちが階段を上がっていく時、僕は背中越しにこんな言葉を聞いた。

「ねこちゃん、今日もいるかなあ。」

 咄嗟に振り返った僕の目に、角を曲がって消えて行く少女の足首が見えた。

 その夜、ビデオカメラに録画されたやや画質の荒い映像を眺めていると、
画面の右手から白い猫が飛び込んできた。それは間違いなく、ついさっき帰宅した時、畳に寝転んでいた白猫だった。
 カメラはベランダを背にして置いていた。そこから右手にあるのは洗面所と風呂場、そして洗濯機。風呂場には外に通じる窓はないから、やはりどう考えても猫は外から入ってきているのではなく、部屋の何処かから出現している。
 排水溝か、換気扇の通気口か。虫やネズミでもないのに、そんな狭い所を猫が通ってくるだろうか。

 次の日になって、僕は洗面所にビデオカメラを置いた。夕方帰宅すると、白黒模様の猫がカーテンの横で顔を洗っていた。
 相変わらず無抵抗な猫を玄関から送り出していると、アパートの廊下に少女が立っていた。

「昨日のねこちゃん。」
「えっ。」
「おじさんのお部屋にいたの?」
「うん、まあ。」

 僕が戸惑っている間に白黒の猫は何処かへ走り去っていってしまった。
少女はごく自然に猫の消えた方へ手を振っている。

「あの、猫は…」

 ふいに隣室のドアが何の気配もなく開いて、母親の腕が少女を掴んだ。

「何してるの。」
「ねこちゃんがいた。」
「…いいから、ご飯食べなさい。」
「はぁい。」

 パタン、とドアが閉まり、僕は何だか取り残された気分で部屋に戻った。
それからビデオカメラの映像を確認すると、猫は紛れもなく洗濯機の中から出てきていた。


「洗濯機から猫が出てくるんです。」

 僕はそう口に出して呟いてみたが、あまりにも現実味のない響きが茫漠と広がるだけだった。とても同じことを大家さんに言えるわけがない、と思った。
 半ば諦めたような気持ちで洗濯槽の中を覗き込む。肝心の猫もいなければ、猫が落としがちな毛など見当たらない。僕は溜っていた洗濯物をごく普通に洗濯することにした。
 明日は仕事が長引くだろう。出てきた猫はお腹を空かしてしまうだろうか。洗濯している間にコンビニに猫缶でも買いに行こうか、と外に出て、僕はふと恐ろしくなった。一度かけた鍵を慌てて開け、靴が散らかるのもよそに、洗濯機のフタをこじ開けに行く。

「…なんだ。」

 泡と水に紛れた洗濯物に手を突っ込んでも、ただ冷たい布の塊が手のひらを圧迫する。
 安堵してもう一度部屋を出て、近所のコンビニに向かう道の途中、小さな公園にあの少女がいた。一人でブランコに座り、何かを歌っているようだ。
 僕は多少周囲に警戒しながらも、少女の傍へ近付いた。あくまで目的は少女ではない。少女の知る、猫のことなのだ。
 僕の気配に気付いた少女は、僕が隣人の住民であることをすぐに思い出したようだった。

「こんにちは。お母さんは?」
「お買い物。」
「そうか。あの、僕たちが見ている猫のことだけどね、」
「ねこちゃん、かわいい。」
「うん。そうだね。あの猫は君の猫?」
「違うよ。お母さん、ねこちゃん嫌いだから。 "マリア" はね、
ねこちゃん大好き。 」

 "マリア"、と自分で言うのだから少女はそういう名前なのだろう。僕は少しだけその名前に面食らいながら、さらにあの猫たちのことを聞き出そうとした。
 少女はありがたいことに、僕の言葉に疑問を持たない。この少女であれば、「洗濯機」の話をしても大丈夫なのではないだろうか。

「僕の部屋の洗濯機から出てくる猫は…、」
「あっ。」

 少女が声を上げてブランコを降りる。少女の行く手に立っていたのは、買い物袋を下げた母親だった。僕が隣人と分かっていなければ、すぐにでも警察を呼ばれていたに違いない。母親にはそれくらいに憎悪に満ちた表情が浮かんでいて、僕は無理矢理に愛想笑いを作った。

「こんにちは。」
「…娘に何か用ですか?」
「いえ、一人だったので、ちょっと声をかけただけです。」
「おじさんもねこちゃんが好きなの。」
「猫?」
「お宅のお部屋にも猫が出ませんか?僕の部屋には猫が出るんです。」
「”マリア” のおうちにも遊びにくるよ!」
「静かにしなさい。猫なんて知りません。では私たちはもうこれで。
娘を心配して下さってありがとうございます。」

 母親は少女を引っ張るようにして公園から去っていく。母親は、僕がした猫の話に戸惑っているわけではなかった。どちらかと言うと、やはり何処か憎しみのような、嫌悪のようなものの表れだった気がする。ただの猫嫌いというのではなさそうだった。少女と僕に共通する「猫」こそが、彼女の神経を苛立たせるのだろう。
 しかしそのお互いの溝は、僕が努力してまで埋めるものではなさそうだし、そもそも問題は猫であり、あの母親ではないのだ。

 僕は気を取り直してコンビ二で猫缶を買うと、帰宅して洗濯槽を見た。中にはいつも通り、濡れた洗濯物しか入っていなかった。

 缶詰を置いていった夜、部屋の中がツナ缶のような匂いで満ちていた。
缶の断面はきっちりと平らになっており、猫は一度も口を付けなかったのだろうと想像できた。皿にでも出してあげるべきだっただろうかと反省しながら部屋の中を探してみたが、猫は何処にもいなかった。


 その数日後、隣の親子も引っ越してしまったことが分かった。結局それ以来猫が洗濯機から出てくることがなくなったため、もちろん大家に報告することもなく、かと言って誰かに話すにはあまりにも不確実なことが多いことから、僕は何事もなかったかのようにまたこの部屋で過ごすしかなくなってしまった。
 時折、帰宅する時には猫の存在を期待するし、洗濯機を回す時は今でも少しだけ緊張する。


 数年後、僕は部屋を引っ越すことになった。つい最近交際を始めた彼女と同棲することになったからだ。
 カーテンを外した部屋で最後の荷物をまとめていると、トン、と背後で何かが落ちる音がした。
 振り返ると、灰色の猫が座っていた。かつて洗濯機があったその場所に、猫は平然と座っているのだ。

「久し振りだね。」

 猫は座っている僕に近寄り、腕の匂いを嗅いでいた。以前見た猫たちと違い、灰色猫の首には首輪が付いていた。
 それから首輪と猫の間には、細長く白い紙が差し込まれている。猫はやや迷惑そうに紙を前足で落とそうとしている。僕はその紙をゆっくり引き抜く。猫は、それで満足したように、開いていた玄関から小走りに走り去った。

「あ、猫。」

 階段を上がってきた彼女の声が聞こえる。僕は白い紙を広げてみた。そこには子供の字で、「おじさん ありがとう」と書かれていた。おじさんかぁ、と僕は思ったが、幼い少女からすれば、僕はおじさんなのだろう。
 猫がいない以上、返事を渡すことはできないが、今も何処かにいる彼女のことを想い、僕はそっと紙を畳むと、ポケットにしまった。

「ねえ、可愛い猫がいたよ。」
「洗濯機から出てきたんだ。」
「なあに、それ? 面白い。」
「そのうち教えてあげるよ。」
「今話してよ。」
「向こうに着いたらね。」

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