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離せない手(短編戯曲)



【あらすじ】

 幼い頃から身体が弱く寝たきりの妹(千歳/ちとせ)を看護する姉(千代/ちよ)。千歳は治る気配のない身体の不自由さから、姉の献身的な態度に八つ当たりし、苛立っている。加えて、医者である昭彦(あきひこ)と千代が恋仲であることも、千歳には気に食わない。しかし、昭彦は別の女性と見合いを進めていることが発覚する。千代は昭彦からの結婚の申し込みを断っていたのだ。どうしてそこまでして自分を優先するのかと千歳は千代を訝しがる。


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     ベッドに座っている千歳。
     千代は最後の一口を千歳にスプーンで食べさせている。

千歳 こんなことを言ったら、姉さんは笑うかもしれないわね。
千代 あら、なに? 聞かせて。
千歳 私ね、人魚になりたいの。青い海の下を、どこまでも、どこまでも
   泳ぐのよ。どれだけ遠くへ行っても、ちっとも苦しくなんかないわ。千代 素敵じゃない。それなら、私たちは人魚の姉妹ね。
千歳 いいえ、姉さんは違うわ。
千代 どうして?
千歳 姉さんにはちゃんと動く足があるでしょう。それに何処まで
   歩いたって、私みたいに息が苦しくなったりしないわ。
   だから海に入る必要なんてないのよ。
千代 だけど、寂しくない? 海の中で一人きりなんて…。
千歳 お魚がたくさんいるもの。それからイルカも、ヒトデも、クラゲも。
   サメや鯨だって、みんな私のお友達なの。ね、もう寂しいなんて
   ことないでしょう。
千代 私は、千歳と離れたら寂しいわ。
千歳 …そんな嘘、もうたくさんよ。
千代 嘘じゃないわ。
千歳 今も私を恨んでいるんでしょ?
   あの時、私を捨てて彼と逃げ出さなかったこと。
千代 ねえ、それは思い込みよ、千歳。私、ちゃんと明け方には
   帰ってきたでしょう?
千歳 あの日はね。毎日毎日、いつ良くなるのかも分からない私を
   世話してるんだもの。この先、いつ私を捨てたくなったって
   おかしくない。
千代 私は今まで一度だって、そんな風に思ったことないわ。
   あなたは大事な妹よ。それに、病気だっていつか良くなるわ。
   昭彦さんだって協力してくれているんだから。
千歳 どうせ姉さんの気を惹くために私を利用してるのよ。
千代 ねえ、そんな言い方はやめて。
千歳 私が死んだら、姉さんたちは嬉しいでしょうね。
   他所に家なんか借りないで、このままこの家に住んだら良いわ。
   そうしてこのベッドで作られた子供に、姉さんはなんていう名前を
   つけるかしら? 優しい姉さんのことだから、私の名前をつけようと
   するでしょう。だけど、たった三十年さえ生きられなかった私の
   「千歳」なんて皮肉な名前はおよしなさいね。
千代 …今日は調子が悪いのね。ほら、外は雨だわ…。
千歳 調子が良かったことなんて、人生で一度もないのよ。

     昭彦、颯爽と現れる。訪問診察の出で立ち。

昭彦 参った、ずぶ濡れだよ。すまないけど、ジャケットだけ干しても
   いいかい。千代 ええ。
千歳 傘はどうしたの?
昭彦 僕は傘が嫌いなんだ。ああ、今日は顔色が良いね。
千歳 そう?昭彦 とりあえず、熱を計ろうか。それから聴診器、採血は…
   次でいいかな。
千歳 いつもと同じね。退屈だわ。たまには変わったことをしてよ。
昭彦 例えば?
千歳 そうね…このだるくて不自由な足を取り替えてしまうの。
昭彦 外科手術か。入院になるぞ。
千歳 良いじゃない。
昭彦 千代が寂しいだろう、一人っきりになって。
千歳 あら、たまにはその方が良いんじゃない? ねえ、姉さん。
千代 …そんなことないわ。
昭彦 (聴診器を取り出して)さて、失礼するよ。息を吸って、…吐いて、
   そう、ゆっくり。
千歳 人魚は、海の中でどうやって息をするのかしら。
昭彦 なんだ、急に。
千代 昭彦さんが来る前に、人魚の話をしていたの。
昭彦 人魚か。そうだな、エラ呼吸じゃ、ちょっと美しくないなぁ。
千歳 私ね、人魚になりたいの。
昭彦 僕は人間の千歳が良いけどな。
千歳 あら、そうなの?
昭彦 もちろんだよ。人魚じゃ、こうして気軽に話せないだろ。
   ここは海も遠いし。
千歳 人魚になって自由に泳いで回ろうと思ってたのよ、私。
昭彦 海に潜らなくたって、君は自由になるよ。
千歳 本当?
昭彦 本当さ。

     千代、昭彦のジャケットのポケットから一枚の写真を取り出す。

千代 …昭彦さん、これ…。
昭彦 ああ、ポケットを探ったのかい?
千代 ごめんなさい。中の物が濡れるといけないと思って…。
昭彦 謝ることないさ。その女性ね、次の見合い相手なんだ。
   親父がどうしても、って言うから。
千歳 薄情ね。もう姉さんを嫌いになったの?
昭彦 そうじゃないんだ、だけど…。
千歳 あーあ、可哀想な千代姉さん。
千代 …私はいいのよ、千歳。全部私が選んだことなの。
昭彦 千代…、ごめん。でも、千歳の診察はこれからも続けさせて欲しい。
   僕は、君を…、君たち姉妹を本当に気にかけているんだ。
   それは、ずっと変わらないよ。
千代 ええ、ありがとう。
千歳 雨の音が止んだわよ。また濡れないうちにさっさと戻ったら?
昭彦 …そうだね。じゃあ、また来週に。
千代 ええ、気を付けて。

     昭彦、退室する。

千歳 ふふっ、あはは、おかしいわ、こんなことになるなんて。姉さん、
   今度こそ本当に私を恨んでるでしょう?
千代 いいえ。
千歳 恋人に捨てられたっていうのに、相変わらずそうやって大人しく
   我慢するのね。
千代 プロポーズを断ったんだもの、当然だわ。
千歳 あら、何よそれ、初めて聞いた。
千代 ほんの数日前よ。
千歳 どうして私に教えてくれなかったの?
千代 「私のせいで断った」って、また千歳が気に病むと思って。
千歳 何、結局また私に気を遣ったの? どうしてそこまでするのよ。
   姉さんはそれでいいの?
千代 ……。
千歳 そうやって姉さんは自分の人生を棒に振って、一生私を恨み
   続けるのね。
千代 恨んでなんかないわ。…むしろずっと感謝しているのよ。
千歳 急に何を言いだすの?
千代 千歳は覚えていないでしょうけど…小さい頃、波に攫われた私を
   追いかけて、私たちは一緒に海で溺れてしまったの。
   私は無事だったけど、あなたは水をたくさん飲んで、一週間後に
   やっと意識を取り戻した。それからなのよ、千歳の身体が上手く
   動かなくなったのは。
千歳 そんな作り話、信じられるわけないでしょ。
千代 ええ、信じてくれなくてもいいわ。だけど、私はきっと、
   千歳がいなかったらあの時に死んでしまったんじゃないかと思うの。
   千歳がいてくれたから、私は助かった。だから私は、ずっとあなたを
   支えようと決めたの。私と千歳、あの海に入った日から、私たちは
   もう離れられない運命なのよ。
千歳 姉さん、何だか変よ…。気でも狂ったの?
   だからって結婚を断ったの?
千代 …最初にあの人と出会った時から分かっていた。私と彼では
   到底釣り合わないってこと。昔話でもそうでしょう、人魚はね、
   人間とは結ばれないの。そういう決まりなのよ。
千歳 バカね、人魚なんて冗談に決まっているじゃない。私も姉さんも、
   どう見たって人間よ。
千代 いいえ、あなたも思い出していたのよ、あの海のこと。苦しくて、
   怖くて、生温かった。でも私たち、手を繫いで一緒に
   陸に上がったの。ほら、私たちはもう人魚だったのよ。
千歳 …姉さんは何処へでも行けるわ。その綺麗な足でね。
千代 それは千歳が手を引いてくれるからよ。私は一人では何処へも
   行けないわ。ずっと、あの海に沈んだまま…。ねえ、今度2人で海に
   行きましょう。
千歳 電車に乗って?
千代 バスにも乗るわ。
千歳 どれくらい時間がかかるの?
千代 半日もあれば着くでしょうね。バスを降りるとやがて潮風が吹いて
   くるわ。懐かしい匂いよ。それからしっかり手を繫いで、波のうねり
   で離れないように、ゆっくり、ゆっくり、私たちは海へ帰るの…。

     千歳の方へ近付く千代。手を握る二人。
     遠くからは微かに波の音が聞こえてくる。 終。


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