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家出

 見慣れない足跡を辿って歩いていると、随分住んでいた町から離れてしまった。長く続く線路は、少女が一度も乗った記憶のない電車のものだったし、踏切から仰ぎ見た信号機は黄色のままいつまでも点滅している。それでも少女は悲しくはなかった。何故かと言えば、どうしても少女は母の手伝いをしたくなかったからで、こうして夕方まで外にいれば、そもそも母に呼ばれることもないからだ。
 この足跡は裏庭の小さな門から家の外へと続いていた。門を跨いだ様子がないところを見ると、どうやら家の中には入らなかったようだ。少女はそれを残念に思った。謎の侵入者が家の中をめちゃくちゃにしてくれたら、どれだけ少女の気持ちが晴れたことだろう。
 汗で濡れた前髪がこめかみに張り付いていた。少女は何処かで見た大人の女性がやっていたのを真似て、右手の指を内側に曲げて、手の甲で前髪を頭の後ろへ押しのけた。誰もその仕草を見てはくれなかったが、なかなか美しくできたのではないかと少女は自慢気に微笑んだ。
 ところで、肝心の足跡は踏切の前で消えていた。今まで頼りにしてきた別世界への道標を失い、少女は溜息をついた。これではもう来た道を戻るより仕方ない。何の導もなしに線路を超えるのは、たとえ家を飛び出したかった少女でも恐ろしかった。今までに一度も、電車というものに乗ったことだってないのだ。
 汗で濡れた前髪がこめかみに張り付いていた。少女は何処かで見た大人の女性がやっていたのを真似て、右手の指を内側に曲げて、手の甲で前髪を頭の後ろへ押しのけた。誰もその仕草を見てはくれなかったがなかなか美しくできたのではないかと少女は自慢気に微笑んだ。初めて見た踏切の前、初めての大人じみた前髪の撫でつけ方。少女は随分それで満足した。もしも帰って母に怒られても、この自分だけの小さな秘密たちを胸に抱えていれば、
たった10分のお説教くらいじっと耐えることができるだろう。
 少女は吹いてきた向かい風にもう一度美しく笑いかけると、くるりと後ろを向いた。彼女はこれから堂々と帰るのだ。

「あ。」

 帰路へ続く道。黒い影がぼうっと立っていた。よく見ると、それはただの影ではなく、風呂場の排水口に溜まった髪の毛のようなもので全身を覆っている。表面だけなら、大きな図鑑に載っていた何処かの雪男にも見えた。
ただ、その影は雪男よりも黒く、細い身体をしていた。それにしても、あれが足跡の正体だとしたら、いつの間に自分より後ろを歩いていたのだろう。少女は何気なしに手を振ってみた。黒いもじゃもじゃの塊は、わずかに細い腕を持ち上げたような気がした。

「…私が帰るのと、どちらが早いかしら。」

 少女は一人でそう呟きながら踏切を後にした。やがて歩いていると影はだんだんと大きくなり、身体を覆う黒い毛がどれほどにもつれ、どれほど緻密に絡み合っているかもはっきり見えるようになった。背の高さは少女の父親と同じくらいだろうか。

「先に帰っちゃうわよ。」

 少女は先程習得した、あの洗練された前髪の撫でつけをしながら、黒いものを仰ぎ見た。彼はわずかに震えているようだったが、少女の言葉には答えず、彼女の後を追うでもなく、ただ同じ場所に立っていた。少女が彼とすれ違った時、犬の手の裏のような臭いがした。

 少女は歩きながら足跡を探していたが、来た時に辿っていたはずの足跡は全て消えていた。あの黒いものが全て消してしまったのかもしれない。残念なことに、あれはきっと侵入者とは別のものなのだろう。もし家の中で母があれを見ていたら必ず恐怖で泣き叫んだに違いない。

 少女が家に帰ってみると、母は見たこともない男と手を繋いで家の中を歩き回っていた。だったらすっぽかしたお手伝いも、すっぽかした件のお説教も、もう何も関係あるまい。家の中を横切って、裏庭の門を見に行くと、やはり足跡は消えていた。

「お腹が空いたわね。」

 庭の隅に寝ていた茶色い猫が、ぐるる、と唸った。少女は右手を持ち上げたが、前髪はまだ耳のおかげでしっかりと留まっていたために、仕方無く傍の葉っぱをむしり取った。それを母は目ざとく家の中から見つけ、男の手を乱暴に離し、少女に向かってわめきながら早足で歩いてくる。少女は母の姿を見ながら、足跡と踏切、新しい仕草と少し臭う黒いもの、それから、いつか湖で遊んだ少年のことを思い出していた。

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