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 右腕は重力の向こう側へ連れ去られ、今にも引きちぎれそうであった。
それでも彼は必死に彼女の左手首を掴んでいた。今ここで彼女を離してしまったら、もう生きて会うことはありえないだろう。崖下の荒れ狂う激流の中に落ちて尚、何事もなく戻ってくることができる者などいないはずだ。
 彼女にも当然それが分かっているはずだが、何処か彼よりも深刻さのない表情で、時折右のポケットから飴玉を取り出して、舐め切るのを惜しんでバリバリと噛み砕いている。

「君はもう諦めてしまったのか。」

 彼はやっとの思いで彼女に呼びかけた。いくら彼女の弟がかつてない重罪で刑務所に閉じ込められていようと、彼女の両親が彼を多様の理不尽な観点から一切信用していないとしても、彼は彼女を見捨てようとは思わない。
 それはこの地球上で彼が持ちうる唯一の愛情でもあり、執着でもあった。
彼女はそんな彼の想いを如何にして最大まで理解しているか、まるで彼には窺い知れないような様子でいるが、それでも構わないのだ。何かが報われなくとも、彼女が傍にいるならば、彼にとっては十分であった。

「なあ、ここから無事に抜け出せたら、映画を見よう。」
「…どんな?」
「君が観たがっていたじゃないか。何だったか…、宇宙船に乗って、地球外生命体の敵と戦って、最後には誰も彼も死んでしまうような、そんな映画だよ。」
「そうね。悪くないわ。」

 彼女はまた飴玉を口にしていた。一体どれくらいの飴玉があのズボンの中に詰まっているというのだろう。肌と生地にの間にはカード一枚すら挟み込むのが不可能なくらいに隙間がないというのに。

「映画の後は…そうだな、近くのカフェでエスプレッソでも飲もう。」
「貴方はアメリカンでしょう。」
「よく知ってるね。」
「顔に描いてあるのよ。」

 右腕はいよいよ限界だった。その上、彼女が腰を捻るようにして器用に踊り出すものだから、その揺れのせいで余計に疲弊が募っていた。彼は途端に深い悲しみに襲われた。
 自分だけが欲望のままに彼女を欲しているだけなのだろうか。彼女は、あの激流の中に身を投じそのまま現世に戻れなくとも、それで良いのだろうか。
 頭上で大きな鳥がけたたましく鳴いた。あの鳥が彼女を引き上げてくれたら、家の外に鳥小屋を置いて、永遠にあの鳥に食べ物を与えてやるのに。
鳥は、そんな彼の想いも虚しく、空の彼方へ消えて行ったようだった。
 空は青かった。彼女と初めて出会ったあの日のように。それから彼女の弟が、刑務所の中からおぞましい手紙を送ってきた時のように。

「君は諦めたりしてないんだろう?」
「何を言っているの。」
「あと少しだよ、ほら、そこに手をかけるんだ。それから力を入れて…、」
「ねえ、何か持ってない?」
「え?」
「キャンディがなくなっちゃったのよ。」

 彼はジャケットの中を探った。それから、左側の内ポケットにガムを持っていたことを思い出し、咄嗟に右手でそれを取り出した。

「オレンジ味だけど、いいかい?」

 それは映画館を出て、それから近くのカフェでコーヒーを飲み、日当りの良い公園へ行く途中で交わされるような何気ないやりとりだった。彼女が何かを欲し、彼がそれを与える。しかし、今彼らがいたのは平和な街中などではなかった。彼は突然そのことを思い出し、崖の縁に両手をついた。
 彼女はもう、何処にもいなかった。


 次の朝、彼がアパートに帰ると、管理人の女性がニコニコと笑って彼を迎えた。

「どうかしたんですか。」
「昨晩、何があったと思う?」
「何ですか。」
「このアパートに天使がいらっしゃったのよ。」
「はあ。」
「もう今朝もそのことでこの辺は持ちきりよ。これから新聞記者が来るって言うし、ゆくゆくは教会にしてしまった方が良いのかもしれないわ。」
「…困りますよ。僕の住む場所がなくなるじゃないですか。」
「だけど、天使様の住処になるなら、とっても素敵じゃない?」

 彼は管理人の言葉をよそに、三階にある自分の部屋に足を踏み入れた。
ひどく疲れていたので、さっさとシャワーを浴びて寝てしまいたかった。
 ドアを閉めて、鍵をかける。窓の外では、人の声が絶え間なくざわめいていた。

「もう戻ったのね。」
「ああ。」

 シャワールームから、彼女の声がする。彼女を待つために、彼は椅子に腰を降ろした。

「貴方は聞いた? 天使のこと。」
「なんだ、君までその話か。」
「天使って、私なのよ。」

 くすくすと笑う彼女の気配。テーブルの上に置かれていた飴玉に、彼はそっと手を伸ばす。指先が触れたその瞬間、彼の右手はまた重力の向こう側へと引きずられた。落ちて行く彼の背中越しでは、鳥の鳴き声がいつまでもこだましていた。


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