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雨の日

 空にかかる虹を収めようと躍起になる僕の肩を執拗に叩いてくる者がいるので、五度目のシャッターを切り、やっとのことで振り向いた。そこにいたのはまるで知らない男だった。やせ細っていて髭に白髪が混じっているが、顔つきはそこまで老けていない。

「何なんです、さっきから。」
「もう止んでしまったのか?」
「何の話ですか。」
「雨だよ。」
「そりゃあ虹が出てるくらいですから、止んでるんですよ。」

 構図を変える動きを利用して、僕はできるだけその男から距離を取ることにした。橋を降りて川辺から虹を見上げると、欄干に手をかけた男がまだこちらを見ていた。男ごとフレームに入れる気にもならないので、場所を決めかねているうちに虹は溶けるようにして消えてしまった。やがて思い出したように再び雨が降り出し、晴れ間に歓喜して家から出てきた連中はさっさと逃げ帰って行く。僕はカメラを懐に押し入れ、橋の下で雨宿りすることにした。

「それみろ!」

 頭上で男の声がした。誰かと喧嘩でもしているのかと顔を出すが、もう男の姿はなかった。しかし一瞬人の通る気配があった後、懐が軽くなり、気付いた時はすでに遅かった。

「何するんだ、返せ!」

 男はほんの僅かな隙をついて僕のカメラを盗み去っていたのだ。どうやって橋の上から下までこんなにも素早く移動できたのか知る由もないが、男はカメラが濡れるのも構わず、さっきまで虹があった方へレンズを向け、ひたすら
シャッターを押していた。残りのフィルム数が頭を掠め、まだ半分以上あったことを思い出すと、やはり僕はいても立ってもいられず男の首根っこを掴んでいた。

「よせ!!」

 男は半笑ったままやけに力強く立ち、僕のことなど気にも止めていない。
一枚、また一枚とフィルムが消費され巻かれていく音を聞きながら、雨は再び勢いを落とし、西の雲の切れ間からは光がちらついているのが見えた。誰もいない街の中で、僕は1人すすり泣くしかなかった。男は撮影しつくしたカメラを僕に投げ返しながら言った。

「晴れた日に写真を撮るなんて馬鹿げてる。写真てのは薬付けで湿ってるもんだろう? 最後だって水浸しだ。だから、写真は雨の日が一番いいんだ。」

 男は高笑いしながら二度目の虹に向かって走って行った。雨が止んだのが気に食わないようだった。僕は急いでアパートに返り、カメラを乾かそうと分解してみたが、結局元には戻せなかった。フィルムは現像できそうだったけれど、薄気味悪いので窓から捨てた。何もかも台無しになってまた泣いていると、アパートの管理人が来てドアを開けた。

「おや、風邪を引くよ。」
「いいんです。」
「どうかしたのかい。」
「いいえ、ちょっと…写真を撮るつもりだったんですが。」
「こんな天気で。」
「ええ、まあ…」

 外は土砂降りになっていた。窓の外で「それみろ!」という声がしたので、
身を乗り出してみると、あの男が立っていた。僕はテーブルの上に広げていたカメラの部品を全部上からぶちまけてやった。男はといえば、そんなのもには目もくれず、びしょ濡れの通りを走り去って行った。あらあら、と管理人のおばさんは呑気そうな声を出していた。

「…虹の写真を撮るつもりだったんです。」
「あら。」
「でも、誰のために撮ったのか、もう思い出せません。」
「何だか難しいわね。貴方の言うことは。」

 雨は三日三晩降り続いた。ある時僕は街の雑貨屋で古いカメラを見つけたが、触ることさえしなかった。


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