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居場所

 水はもうなくなってしまった。帰り道は、歩けば歩くほど遠のいていくようだった。彼は、昔こうして同じように帰り道が延び続け、そのまま帰れなくなってしまった少女の話を思い出した。あの少女は一体どうなったのだろう。そのまま塵のように消えてしまったのか、あるいは見知らぬ街へ辿り着いたのか。彼の歩いている景色は奇妙に均一なままで、何度つま先が前方を踏みつけようと、今は生か死かそんな簡単なことさえ忘れてしまうような長い道のり。

 かつて父が教えてくれた港には、ずいぶんと美しい女の人が住んでいると言う。その美しい女性のためについに父は遠い旅路を越えて、そのまま家には戻らなくなった。母はそれを咎めることはなかったが、時折窓の外を見ているのは、きっと父の背中を思い出しているからだ。それでも数年後、母もまた、山の麓に住む男の山小屋へと出発した。彼は、ただ一人残された。
しかし悲しみも寂しさも、彼の心にはほとんど現れず、だったら自分もまた、何処かにいるであろう「人」を目指して家を出て行けば良いとさえ思った。

 それがこの旅路であり、同時に、叶わなかった旅路の帰路でもある。彼の帰るべき所は、かつての家、そして、まだ見知らぬ「人」のいる場所。そのどちらでもあり、この果てしない道の中で、また、そのどちらでもない。

 彼は歩き続けていた。地平線の彼方から鐘の音が聞こえる。あの鐘塔の中にあの少女がいたら、どんなに素晴らしいだろう。水はもうなくなってしまったが、彼は少しだけ笑って、また霞んだ道の上を歩き始めた。


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