見出し画像

夢の始末

 夢の中の出来事が現実となって彼を嘲笑うのは、もう彼にとって何の不思議もない、日々繰り返しの一部になっていた。朝起きて顔を洗い、昼になってサンドイッチを食べる。夕方にはややうとうとしながら仕事を終え、日が落ちた頃にまた家に帰る。
 今日、帰り道にすれ違ったハイヒールの女性が躓いて、頭から派手に転んだのは、まさに夢で見た光景だった。彼は夢の中で彼女を助けることができなかったため、現実の彼もまた彼女を助けることはなかった。夢に逆らうとろくなことがないのを、彼はもうすでに知っていたのだ。
 ある時、薄暗い酒屋の奥で見知らぬ男にこの話をしたら、だったら予言者にでもなっちまえよ、と唆された。無論、彼にそんな大層なことができるはずもない。予言に値するような重要人物の死や、この星の滅亡のような、大袈裟な夢は今までに一度も見たことないからだ。つまらない夢ばかり。女の転倒、電車のわずかな遅延、群れる鳥が飛ぶタイミング。
 彼はふと夜明けのベッドの中で思った。もしこの世界が、全て誰かの夢の断片によって構築されているのだとしたら、自分の担当する景色はなんてくだらないのだろう。それこそ、重要人物の死や、この星の滅亡を見ている人がいるのだとしたら、そういう連中は毎晩夢を見る意義もあるというものだ。

「羨ましいんだ、俺は。」

 彼は僅かに泣きながらもう一度眠りについた。その日の夢は、くだらない夢ばかり見るという一人の男が、夕陽の照らす山の頂上でか細い女性の手によって首を絞められる夢だった。二人の背中を見下ろす彼に、彼らがどんな表情をしているかは分からない。何故男は死んだのだろう。彼は男の身体が意識を手放し崖の下へ転がり落ちていくのを俯瞰しながら考えた。
 すると、赤毛を揺らしながら崖下の惨劇を見て笑っていたか細い女が、何かを思い出したように彼の方を振り返った。そして間違いなく彼に向かって告げた。

「忘れてしまった方がいいわよ。」
「え?」
「現実になってしまうから。」
「そんな話、何で今更言うんだ。」
「貴方は信じやすいのよ。」

 日が高く昇り、彼ははっきりと目が覚めた。崖下の男の顔を思い出そうとした。もしかすると、あれは自分だったのかもしれない。

「……。」

 夢に歯向かうことはろくなことではない。その均衡を崩すことは、現実をもねじ曲げることになる。しかし彼は思う。全て彼女の言うように、ただ自分が信じやすいだけで、そもそもが、夢の現実化さえも単なる偶然の代物かもしれないのだ。だとすれば、夢の内容で優劣がつくようなこともなく、
自分はただいつも通り明日からは何も考えず朝を迎え、顔を洗い、昼にサンドイッチを食べ、夕方にうとうとしながら帰宅すればいい。夢が現実を作っているなんて、馬鹿げた妄想なのだ。
 だったら今日のうちに終わらせてしまおう。彼はベッドを降り、鉄道を乗り継いで手近な山を目指した。そこであのか細い女に会わなければ、全てはただの思い込みだったと証明されるのだから。

 街から山は存外遠く、山の頂上に着く頃には、夕陽が差していた。彼は清々しい気持ちで濃いオレンジ色の雲を眺めていた。すると、背後で、山道にはそぐわない、カツカツという軽快な音が聞こえた。

「忘れてしまわないからよ。」

 そのか細い女は、ハイヒールを履いていた。どうやってこんな所まで来たのか、と疑問に思う暇もなく、彼は細長く冷たい指によって首を締められていた。

「俺は信じない。これはもうただの後始末だからな。」

 きれぎれに掠れた声が、どんな風に彼女の耳に届いたかは分からない。彼は渾身の力を振り絞って身体を捩ると、彼女の身体を抱えたまま崖下へ飛び込んだ。二つの影がすっかり見えなくなり、夕陽の照らす山頂には、冷たい風が吹きつけた。
 しばらくして辺りは真っ暗になり、何処かで獣の鳴く声がしたかと思うと、そこで世界はプツンと音を立てて終わった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?