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部屋はない

 アパートの中には、前に住んでいた住人の服やノート、たわいもないメモなどが残されている。以前の住民がベッドや棚などの大きな家具を置いていくことはめずらしくないし、例に寄って彼の使っている全ての家具は、すでに引っ越してきた時から置かれていた。それが全て同じ持ち主のものなのか、またはさらに前の住民のものなのかは分からない。
 いずれにせよ、アパートの中にあるものは、彼のものであり、また、彼のものではない。このアパート全体の若い管理人(まるで少女にさえ見える)によれば、もし突然に以前の住民が部屋を訪れ、持ち物を取りにきたとしても、一切の抵抗は許されないという。

「ここにあるものは僕のものではないんだ。返して当然じゃないか。」
「あら、そう?」

 管理人の女は少し馬鹿にしたように彼を見上げた。

「自分のものにしてしまいたくなる時もあるんじゃないかしら。」
「僕はそんなに傲慢じゃないよ。」
「とにかく、喧嘩はしないことね。ここの人はみんな大人しいんだから。」
「分かってるさ。」

 彼は極めて快適にこの部屋の中で生活を始めた。気まぐれに引き出しを開けると、ノートには誰かの日記が書きつけられていたり、手紙が挟まっていたりする。それを読んでいると、彼に暇な時間など存在しなくなった。
今もどこかに存在しているであろう人たちの感情を上からなぞるうち、彼はこの部屋に住んでいたはずの五人の名前と性格を知り、使っていた家具や道具の経緯をいくらか把握することができるようになった。

 真鍮で作られた凹んだヤカンは、東洋に住み着いた親戚がプレゼントしてくれたもの。無骨な樫の木のオブジェは、死んだ妹の恋人が、死後に弔いのため置いたもの。色褪せた絹のカーテンは、隣町の友人が不要になったからと手放したもの。

 ある時は非常な嬉しさを持って受け取られていたプレゼントも、今はこうして置き去りになってしまっている。彼は想像した。持ち主の関心が薄れこそすれ、捨てずに置いていくという、心残り。その取り残された感情は、今もこの部屋に充満している。

 彼はある時から、自分で用意した唯一の新しいノートを使って、住民の詳細や、家具や道具の経緯を分かりやすく分類して書き写すことにした。何の意味もないと頭の隅で思いながらも、あらゆる紙類を読み解き、果ては筆跡でその書き手を判断できるようにもなった。すると作業は格段に効率を高め、没頭した彼が一ヶ月も取り組んだ結果、ノートは文字で埋まり、部屋にあるほとんど全てのものが記憶を取り戻した。

 異様な達成感でアパートの外に出た彼は、見慣れない車が一台止まっているのを見た。車から一人の紳士風の男が降りてくると、懐かしそうに細めた目でアパートを見渡している。もしや、と思った彼はしばらくその様子を見ていた。男はゆっくりと建物の中へ入っていき、しばらくすると、両手いっぱいにさまざまな道具を抱えて戻ってきた。そこには、あの真鍮のヤカンも下げられている。

「そうか、あれが…」

 彼は呟いた。男のことはよく知っている。大学時代にこのアパートに住み、同じ授業を取る女性としばらく恋仲になって同棲を続けたあと、研究所の就職を気に部屋を出た。男の残したものは、ほとんどがクラスメイトからの贈り物や、彼女の持ち込んだ雑貨などだ。それを、何十年も経って、今この瞬間に取りにきたというわけだ。
 車が発進してしまうと、部屋の鍵を開けていた若い管理人が彼を呼んだ。

「見ていたの?」
「ああ。」
「随分優しいのね、貴方って。」
「何で。」
「部屋のものがあんなに持って行かれたのよ。」
「僕の持ち物じゃないんだから、当然じゃないか。」
「私だったら耐えられないわ。」

 カフェオレを手にした彼が部屋に戻ってみると、少しだけ部屋は荒らされているように見えた。彼は自分のノートを開くと、あの男に関する部分に一つ一つ線を引き、記憶を消していった。

 それから一年が経ち、最後の荷物が引き取られていくと、彼の部屋はノートが一冊残されただけになった。到底そのままでは生活できなくなり、彼は若い管理人に退去を申し出た。

「残念だわ。良い部屋なのに。」
「僕には置いていけるものがない。」
「そのノートでいいわ。」
「嘘だろう。何の役にも立たないよ。」
「いいのよ。ただし、いつか取りに帰ってきてちょうだい。」
「…分かったよ。」

 彼は何もない部屋の真ん中に、今や何の意味もなくなったノートを置いていき、若い管理人に別れを告げた。


 月日は流れ、彼は結婚し、生まれた子供が高校生になるのを見届けると、ふと昔住んでいたアパートのことを思い出した。妻に一言告げて、車で二時間もかけてあのアパートに辿り着くと、建物はすっかり見違えていた。
両隣のブロックと合体したその建物は、今は映画館を併設したショッピングモールになっているらしい。ノートはもう取り返せないばかりか、そもそも建て替えの最中に捨てられてしまったに違いない。

「おじさん、まだ始まるには早いよ。」

 チケット売りの青年がニヤリと笑う。何のことかと思っていると、青年は顎で上映中の看板を差した。そこには、あの頃ここにいた若い管理人とそっくりの女優が、はだけたドレスを着て男の腕に追い縋っていた。それから、男の腕には、表紙の汚れた一冊のノートが挟まっている。

「面白いのかい。この映画は。」
「知らないよ。だけど、見たあとは皆、嬉しそうに帰っていくよ。」

 彼は少しだけ迷ったあと、青年からチケットを買った。映画の中には、きっと他人の物で溢れた、懐かしいあの部屋が出てくるに違いない。その後で、若い管理人に挨拶でもしていこう。


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