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映画『ROMA/ローマ』を観て ~ただそこにある人間愛~

◇ 匂い立つような臨場感 ◇

匂い立つような映画。
まずはそれだ。
水。土。泥。埃。風。雨。
画面に映し出されるあれこれの中で、自分の記憶にある臭気は、すべて嗅げるような錯覚に陥る。さらに「日常」のてらいのないそのままの音が、より生々しい匂いを際立たせる。
匂いと音がかもしだす臨場感の効果もあってか、白黒画面でありながら、そこにはやけに鮮明な現実が映し出されていた。もちろんそれが、キュアロン監督の狙いなのだろう。
なぜなら本作は、実在する女中のリボさんに捧げる映画として撮られたものであるからだ。

アルフォンソ・キュアロン監督は、メキシコの中産階級の家で生まれ育った。主人公のクレオは、監督の幼少期の乳母であるリボさんがモデルである。そしてこの映画に登場する子供達が、おそらくキュアロン監督の分身であろう。クレオの雇い主一家は、かなり裕福そうな白人の家族である。広くて豪勢な家、ドデカいアメ車に大型犬と、いかにも金持ちらしいアイテムが揃っている。そこにきて住み込みの女中まで複数人いるのだから完璧だ。

また、町山智浩氏の音声評論(『映画その他ムダ話)によれば、クレオやその他の使用人がメキシコの先住民であることも本作の重要点であるとのこと。つまりこの時代、白人と先住民の間には人種的階層意識が歴然と存在していたのである。さらに当時のメキシコに、白人に仕えるクレオのような先住民が大勢いたことが、果てしなく広がる屋上干しの洗濯物の光景によって暗に示されるのだ。
しかし、この客観的事実としての理不尽さについてクレオがどう感じているのかは、画面を観ていてもまったくわからない。朝から晩までただ黙々と日々の仕事をこなし、その家の主人や奥さんから口うるさくあれこれ言われても表情にあまり変化はないからだ。
展開上、クレオのエモーションが高まる場面が幾つかあるが、しかしその淡々とした印象は、概ね最後まで変わらなかった。極端にクローズアップが少ないのも表情が読みにくい原因の一つではある。もしかしたら、あえてそういった撮り方をして、クレオという女性の性格を際立たせようとしたのかもしれない。

◇ クレオの青春 ◇
※以降、ネタバレ含む

この映画の舞台となっているのは、1970年~71年のメキシコ。革命によってスペインの植民地から独立したメキシコでは、「制度的革命党(PRI)」の一党独裁政権が長期化していた。
しかし、かつて独占されていた土地を農民に分配するといったような公約が大々的に掲げていたにも関わらず、約束は果たされないまま国民の格差は拡大する一方。インフラの整っていない荒れた土地も多くあり、不満を募らせた農民や学生などの反感を大いに買っていた。
だがそんな時代背景が見え隠れしつつも、この映画で語られるのは、あくまでもクレオ個人の恋愛や雇い主家族達とのエピソードだ。とはいえ、クレオの人生を大きく支配しているものは、その時代の政治や社会情勢であることもじょじょにわかってくる。

クレオは、女中というハードワークを文句一つ言わず日々こなしているが、しかしそんな彼女だって、まだまだ同世代の友達と遊びたい年頃の普通の若い女の子。同僚の女中と二人きりの時には先住民の言語でしゃべり、こそこそと恋バナで盛り上がったりしている。

そんなクレオには、フェルミンというボーイフレンドがいた。ただこの彼氏、いかにもヤリたい盛りの悪ガキといった感じ。ゆえにどうしても、デートするなら映画よりラブホという流れに。リアリティという意味では、ここでもまたそういった若者のリアルがあって、あまり胸キュンな展開は見せてくれない。そしてむしろそんなところが、まさしくこの映画「らしさ」でもある。

余談だが、このフェルミンがラブホの室内で披露する全裸武術シーンは、なかなか強烈だ。クレオとことを終えた後、なぜか彼はその狭い部屋にて一糸まとわぬ姿で、棒を振り回しながら武術を披露するのだ。「せめてパンツくらい履いてくれ」と言いたくなるようなフリースタイル具合だが、おそらくそのモロ見えの股間も含めて「俺」を見せたくて仕方ないのだろう。
そんなマッチョなオラオラ彼氏との恋は、クレオが「妊娠したかもしれない」と告白したことにより、唐突に終わる。つまり、男が逃げたのだ。この男なら然もありなんな成り行きだが、それにしたって酷い。でもクレオは、こんな場面でも決して泣きわめいたりはしない。その抑制的な様は、正直見ていてイライラするくらいだ。

しかし、いくら感情を押し殺したところで妊娠の可能性は消えない。仕方なく雇い主の奥様に相談するクレオ。いつもキーキー小うるさい奥様もさすがにクレオに同情したのか、ずいぶん優しく話を聞いてくれる。
すぐに産婦人科へ連れて行かれ、クレオの妊娠は確定。その時も、クレオは絶妙にノーリアクション。そこに、彼女の複雑な心情がにじみ出ているようにも思えた。
妊娠発覚直後、病院内に預けられている保育器の赤ちゃんをクレオが眺めている時に、たまたま地震が発生する。その後の様子ははっきり映像化されていないが、保育器の上にかぶった瓦礫の欠片や複数の十字架の場面から、地震の被害が何となく察せられる。その時クレオは、命の儚さと重みの両方を感じたのではなかったか。決して手放しで喜べる妊娠ではなかったとしても、宿った命を尊ぶ母性が自分の内に存在することに気づいたのかもしれない。

そんな畳みかけるような怒濤の運命の中、少しお腹の膨らみが目立ち始めたクレオは、あの鬼クズな元カレ、フェルミンに会いに出かける。
探し当てた先は、彼が心酔中の武術の稽古場。と言っても、外の練習場だが。「一、二、三」のように日本語っぽいかけ声をしながら、数十人の男達が武術の稽古をしている。その中にはフェルミンもいた。ラブホで全裸武道を披露した時と同じように、彼の顔には鬼気迫る表情が浮かんでいる。
それにしても、と思う。こんな風に漢(おとこ)らしさを過剰に主張するフェルミンが、「妊娠」の言葉を聞いて秒で逃げ出すなんて矛盾し過ぎではないか。精神の鍛錬云々を解く東洋の武道を志しながら、自分に都合が悪いとなると、何の責任も取らずいとも簡単に放り出すなんて、この男は何のために心身を鍛えているのだろうか。
ついにクレオは、帰りがけのフェルミンを呼び止め、あらためて妊娠の事実を伝える。しかしこの時のフェルミンには、すでに悪びれる気すらまったく失っている。「ってゆうか、オレそんなの知らねーし」的な態度で、堂々とクレオを罵倒。振り向くことすらせずに、あっと言う間に子供の父親は去ってしまった。フェルミンのぶっ壊れた道徳観念には呆れ果てるばかりだが、しかしこれほど侮辱されても、まだクレオは無表情のまま。

時は流れ、クレオのお腹もずいぶん大きくなった。
実はここまでの間に、クレオだけでなく雇い主の家族にも色々な展開があった。まず、雇い主の主人が浮気の果てに出て行ったのである。つまり奥様も旦那に捨てられた身となったわけだ。この頃になると、男に捨てられた女同士ということで、奥様のクレオに対する態度は随分優しいものになっていた。
そして背景にあるメキシコの情勢はと言えば、どうやらますます悪くなっている様子。

そんなある日、出産も間近ということで、クレオは大奥様と一緒にベビーベッドを買いに行く。しかし折悪く、その日は学生や教員による大々的なデモが行われていた。エチェベリア政権への非難として行われたこのデモは、「血の木曜日」として後々も名が残っている。
家具屋の中にいても、デモ隊と弾圧部隊との激しい攻防が窓の外から見えた。攻防が激化する中、ついに家具屋の中にまでデモ隊が逃げ込んで来て、それを追う弾圧部隊も一緒に銃を持って入って来る。さらに、こともあろうにクレオ達にまで、その銃口は向けられた。
ふいにその銃を持った弾圧部隊の男を見ると、なんとそれはあの超ド級クズ野郎、フェルミンではないか。
この頃、反政府集団を暴力で圧するロス・アルコネスという団体があったそうで、要するにフェルミンが所属するあの武道集団は、それだったというわけである。つまりフェルミンは、極右暴力集団の一員だったのだ。

フェルミンに銃口を向けられたクレオは、あまりのショックにその場で産気づいてしまう。しかし、病院までの道のりはデモ騒動で人がごった返していて渋滞に継ぐ渋滞。ようやく病院にたどり着いてクレオは出産するが、その時にはもう、赤ん坊は死亡していた。
立て続けに訪れる不幸。さすがのクレオも号泣せずにはいられない。
ただひたむきに真面目に生きてきただけの彼女が、どうしてこんなにも虐げられ、尊厳を傷つけられ、大切なものを奪われなければならないのか。そんな思いで胸がいっぱいになるような場面だ。それまで感情表現が極度に抑えられてきただけに、余計にそのあふれ出る悲しみが痛く、辛く感じられた。しかし、この段階ではまだ、私は彼女の悲しみの本当の理由を理解していなかったようである。

◇ 海辺にて ◇

子供を失い、魂まで抜けてしまったようなクレオ。これまで通り、表情そのものに大きな変化はないが、口数は圧倒的に減ってしまった。
そんな彼女を、女主人となった奥様は家族旅行に一緒に来ないかと誘う。家族旅行と言っても、実は別れた前夫が荷物を取りに来るので、その間家を空けるための口実ではあるのだが。ただ、荷物を引き渡すということは、ある意味決定的な決別を覚悟するということでもあり、奥様にとっても心機一転を意味する特別な旅である。クレオの苦しみを自分の苦しみと重ね合わせていたからこそ、誘ったのだろう。

そして旅先の海水浴のシーンでこの映画はクライマックスを迎える。
本当にこの撮影は凄いなとシンプルに驚いた。
波に飲み込まれていく子供達を助けようと、泳げないクレオが海に入っていく。どんどん、どんどん入って行く。クレオ自身、波に消えたり、あらわれたりしてすでに溺れる寸前。ザブン、ザブン、ザブン……、観ているこちらまで息苦しくなるような、寄せては返す波、波、波……。ふいに誰かの頭が見える、また消える、また見える、また消える、また見える、あ、見える、頭が一つ見える、一つじゃない、二つ、ああ、やっと二人が合流した、また飲まれる、見えない、二つ見える、向こうに一つ見える、見える、いや二人じゃない、いやいや、ちゃんと三人見える、三人だ、三人が一緒に波から上がってくる……そして、砂浜にて抱き合う三人、そこへ奥様と岸にいたあと二人の兄弟が合流して六人がしっかりと抱き合う。

抱き合った六人の背後から、陽光が差し込む。神々しい光に照らされたそこに、はっきりと「愛情」が映し出されるのだ。真に美しい場面である。

そしてこの海の場面にて、ようやくクレオの本当の思いが吐露される。

「生まれてほしくなかったの……小さいのにかわいそうに」

もちろんこれは、生まれてすぐに死んでしまった我が子のことを言っているのだろう。
死産した直後、彼女が号泣していたのは、単に子供を失ったのが悲しかったからという理由だけではなかったのだ。そこには、もっと痛みを伴う後悔や罪悪感があった。「生まれてほしくない」と思ってしまった自分の心が、子供を殺してしまったのかもしれないとクレオはずっと苦しみ続けていたのである。
ただひたすらに自分の運命を淡々と受け入れてきたクレオだが、一人の人間の命をまるごと引き受ける覚悟までは、まだ彼女は持てなかったのかもしれない。しかし、それは当然と言えば当然だ。朝から晩まで働きづめの彼女。時間にも経済的にも余裕はない。その上、本来なら共に助け合うはずの子供の父親は、非情な態度でクレオと子供を捨て去った。それどころか、クレオに銃口を向けさえしたのである。外では軍隊が行進していて、デモ騒ぎも起こる。今生きている世界そのものが、とても安全とは言えない環境だ。クレオ自身、明るい未来など積極的に描くことは出来なかっただろう。そんな状態で、子供が欲しいと思えなかったとしても何ら不思議はない。

◇ ただそこに映し出される人間愛 ◇

誰にだって、その人しか知らない人生のドラマがある。
映画によって、そんな当たり前のことにあらためて気づかされることが多い。自分自身だって、まさにそうであるにも関わらず。
例えば、『この世界の片隅で』などは、タイトルからしてそういったジャンルの映画だろう。そして『ROMA ローマ』もまた、この世界の片隅で生きている、運命に翻弄されながらもひたむきに懸命に生きる女性の物語であった。

どんなに辛いことがあっても、誰かを責めたり、運命を呪ってひねくれたりせず、ただ淡々と日々を真面目に生き抜くクレオ。果たしてそれが、人としての美徳となり得るかと言えば、私自身の性格としては必ずしもそうとは思えない。本当なら、もっと怒っていいはずだ。むしろ、理不尽なことは理不尽だと声を上げなければ、どんどん搾取されるばかりではないかと、正直彼女を見ていて歯がゆく感じぬわけでもない。
しかしクレオの場合、もしかしたら不満を持つ以前の問題だったのかもしれないとも思う。知識や情報が与えられなければ、その境遇を当たり前だと思って当然だ。そもそも疑問の余地が与えられていないのだから、不満の持ちようもない。

逆も然り。自分が例えば、この雇い主の一家のようにメキシコの中産階級の裕福な家に生まれ、そしてそこに最初から先住民のお手伝いさんがいたとする。だったとしたら、そこで生き続ける限り、私も特に理不尽な人種差別をしている自覚など持たなかったと思う。知識として、人間に差別の歴史があることを知って初めて、疑問の余地も与えられるのである。

ただ、少々話は戻るが、そういった格差や人種差別といった問題にもやもやを感じながら観ていたからこそ、あの海辺でのシーンを格別に美しいものと感じたのだろうと思う。
クレオが思わず放った「生まれてほしくなかったの」という、心の底から絞り出すような辛い告白に重ねて、奥様がしきりに「クレオが大好きよ」、「ムーチョ、ムーチョ」と語りかけ続ける。
ここが至極泣かせる。
そこには、立場とか年齢とか人種とか、とにかくあらゆるバリアが取り払われた、本当に神々しい、ある意味原始的なレベルのただの人間愛のみが映し出されていた。
美しい。とにかく美しい。まさしく大海の水によるカタルシス。
我が映画クロニクル史上でも、特に感極まれりワンシーンだった。

(END)

『ROMA /ローマ』(原題:ROMA)
2018年公開/135分/メキシコ アメリカ
監督:アルフォンソ・キュアロン
脚本:アルフォンソ・キュアロン
出演:ヤリッツァ・アパリシオ マリーナ・デ・タビラ

〈参考文献〉
町山智浩「映画その他ムダ話」『ROMA/ローマ』 https://tomomachi.stores.jp/

〈使用画像〉
Netflixオリジナル映画『ROMA/ローマ』より



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