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◆ 自作紹介 ◆小説『デッド・エンド・ヘブン』&映画『冴え冴えてなほ滑稽な月』について

◇ 最低で最高な世界 ◇

フツーのヘンタイ。

たとえばこのような矛盾した珍妙な概念も、ヘンタイさんが束(たば)になれば、自然と生まれてしまうものだ。
つまりヘンタイという「倒錯した性嗜好」を持ついわゆるフツーではないとされる人も、そういう人々だけが100人集まった空間においては、それがフツーになって、逆に通常ノーマルと言われる類の人がたった一人その中に入ってしまえば、その人の方が「倒錯した性嗜好」を一切持ち合わせていないという点においてマイノリティであり、「へー、ノーマルなんだ。変ってるー」ということになりかねない。
さらにそのような設定の上では、100人各々の「倒錯した性嗜好」の種類によって自然と多数派と少数派が生まれ、その先には、多数派による「平均的」な「倒錯した性嗜好」なるものが存在し始める。
となれば、やっぱり「平均的」な「倒錯した性嗜好」を持つ人間が、「フツーのヘンタイ」ということになってしまうだろう。

だから何なのだというハナシだが、要するに世界は、そんな風にすべてが流動的だし、反転するし、変遷するし、生きた人間の間で「基準」が作られ扱われ続ける以上、けっして軸は固定し得るものではないというチョー当たり前のことが言いたい。

一人の人間の印象だって評価だって、その人間が長く生き続ければ生き続けるほど「人生のどこを切り取って示すか」によってまったく異なるものになるだろうし、さらには状況によってとか対峙する相手が違っても、それらは延々変化し続け、更新し続ける。

ポジティブだとかネガティブだとかも、幸だとか不幸だとかも、価値だとか無価値だとかも、一方からのみ、あるいはその瞬間だけでのみ断じることは難しく、常にその相反する事象が流れる時間と共に表裏一体に存在することは、おそらく殆どの人が体感として知っているはず。

光が注ぐ先には影が出来るし、闇が深いほど生まれ出る光は際立つ。

つまりは、そんなことだ。

ってゆうか、そんなベタな理屈に帰結してしまうなら「フツーのヘンタイ」などという妙チキリンな例を出してまで、わざわざこねくり回す必要などなかろう、と思われるかもしれない。

が、何せ私が書いたただ一冊の、そして映画化された唯一の小説『デッド・エンド・ヘブン ~冴え冴えてなほ滑稽な月~』「SM」を題材としているのだから仕方ない。

デッドエンドヘブン


SM。

そうです。
サド、マゾなんかのあれ。

※ちなみに本作は、基本的に「女性」がS、「男性」がMという関係性のSMを描いている作品です。

本作には「倒錯した性嗜好」を持つフツーのヘンタイ方々や抜きん出たキング・オブ・ヘンタイ方々が軒並み登場し、価値観というものの転倒を縦横無尽、自由闊達にやってのけてくれている。
作者ながら、登場人物達には大いに感心し、かつ興味を惹かれたものだ。

特にMと呼ばれる人々のキャラクターに関しては、スタンダードな基準での「幸」「不幸」や「快」「不快」を清々しいほどに真逆にひっくり返したり、マゼコゼにしてくれる。

おそらくこうした世界に詳しい人でなくとも、Mとカテゴライズされる方々が、おおむね「苦痛を快楽とする」という傾向にあることはご存じだろう。
ベタに連想するところの、ムチだとかロウソクだとか縛られるだとか踏まれるだとか罵られるだとか……etc。
そして、そんな「不快だ」と誰しもが拒否したくなる感覚を、Mの方々は、(個々に好みは異なれど)「快」として認識し、さらにはあえて大枚を投じて自らその感覚を味わいにいくということさえする。

見事に「快」と「不快」の感覚や価値が転倒。

以前私は、このnoteにて坂口安吾『私は海をだきしめていたい』について書いたことがあり、そこにて補足として自書『デッド・エンド・ヘブン』の成り立ちについて以下のように述べた。

この辛苦と快楽のボーダレス具合に大変惹かれるものがあった。
最高に最低な世界。最低で最高な世界。
そうだ、その通りなのだ。
幸不幸の線引きはあくまでも各個人で行うのであって、絶対的に定められた基準など本来何一つないのだから。
よしんばSMプレイを楽しまれるマゾヒスト方々のように、痛みも熱さも苦しさも、時には羞恥や不自由や屈辱さえも快楽に変換出来るとするならば、全方位的に生きることの輝きを見出すことが可能になるだろう。


これぞ、生きていく上で絶望し切ってしまわないための最強スキル。

私は、SMの世界を通じて見出したこのような理屈を軸にして、いっちょストーリーを作ってみようと思いついたわけである。

要は、目の前の絶望を「逆手にとる」ことで突破口を見つけようではないかと、そんなハナシだ。
簡単に言えばだけど。

何にせよ。

この素晴らしき最低で最高な世界で。

◇  探偵と助手の組み合わせで勝負 ◇

ところでこの作品は、一応ミステリー仕立てにもなっている。
ミステリーといえば、探偵。
探偵と言えば、助手。

たとえば、私が慣れ親しんだミステリーの名コンビと言えば、

ホームズとワトソンとか。
ポワロとヘイスティングスとか。
中禅寺秋彦と関口巽とか。

上記を見てもわかるように、「変わり者の天才的名探偵」「常識的で真面目な助手」というコンビが殆どで、要するにこれは漫才のボケとツッコミのようなものなのだろう。
天才(ボケ)常識人(ツッコミ)の掛け合いがあればこそ、問題が整理されやすく、読者を置いてけぼりにせずに済む。

もともと私は探偵モノのミステリーが大好きだったので、常々「探偵と助手」コンビに、何か斬新な組み合わせはないものかと考えていた。
そこで思いついたのが、

女王様(探偵)とMの刑事(助手)。

冴え冴え3


これ、けっこうエンタメ的な「引き」があるんじゃないかと、思いついた瞬間はなかなか気分があがったものだ。
うん、設定としては結構イケてると今でも思う。

が、自分が書いたものなので当たり前っちゃあ当たり前なんだが、やはり名作ミステリーのようなキレッキレの天才的推理を主人公の女王様(美礼)に展開させることは叶わなかった。
本当は、もっとSMに絡めて「そうくるか」と読者を唸らせるような珍推理とか迷推理とか、あるいは本格推理モノにあるような天才ぶりを発揮させたかったのだけど。
これは、ひとえに私の実力不足と言える。

ただ、この組み合わせで良いこともあった。
とりあえず、本来の目的である「常体の転倒」については、かなりうまくいったと思う。

たとえば、「女が強くて、男が弱い」という一般的な男女のパワーバランスの逆転。

そこからさらに転がして、「S(サディスト)が持つ弱さ、脆さ、サービス精神」「M(マゾヒスト)が持つ強さ、タフさ、わがままさ」という意外ポイントへの着地。

先にも述べたが、「この人は○○」と思った先から裏切られたり、やっぱり戻ったりという具合に、とかく何もかもが固定できないような流れにしたかった。
そのあたりは、少しね、少しだけかもしれないけど、成功しているのじゃないかなと思ったりしていて。
あくまでも少しだけだけど、自画自賛。

◇ 理想が叶い続けるという天国のような地獄 ◇

甘みを際立たせるための塩。

言ってみれば、この「塩」というのが、例えば一部のMの方々にとっては「苦痛」だったりするのではないだろうか。
Mと呼ばれる方々に限らず、「砂糖」だけではどうにも無理で、対極にある「塩」でしか出せない深~い人生の「甘み」というものが、きっと誰しもあるはずだ。

人間の体に「痛み」が発生すると、その「痛み」を和らげようと脳がエンドルフィンというモルヒネのような快楽物質を湧きだたせるのだそう。

究極的な耐えがたい「痛み」の先に発生する、麻薬のごとき「快楽」物質。

これを踏まえるならば、あえて鞭で打たれるとか撲たれるという行為も、脳科学的には理にかなっており、「痛み」そのものが、甘みを際立たせる「塩」の役割を担っていると理解できる。

当然こんなことは、肉体的なことのみならず、心の部分でも起こり得る。
心が傷ついた時こそ敏感に気づき感じ得る、癒しや他人の優しさというものがそれにあたるのかもしれない。

ま、これもやはり、今更具体例をあげてまで語るほどの理屈ではないが、結局何が言いたいかというと、マゾヒストという性癖は少しデフォルメされているから特殊に思えるだけで、人間の基本性質的には極めて自然。
あらゆる物事が相対的である限りは、塩が甘みを引き立てるものなのである。

「物語」だってそうだろう。
天国より地獄を描いた方がエンターテイメントとしては面白かろうし、ハッピーエンドを描くにしたって、途中経過に不幸や悲劇というスパイスが無ければ、何も盛り上がるまい。

じゃあ逆に、人が「すべて理想に叶った世界」に放り込まれとしたら、もはや「願う」という感情は無くなり、「幸せ」という概念すら消滅してしまうのではないか。
夢が「叶う」ことは「夢が夢でなくなる」という意味において「失われる」と同義。

ゆえに、願いが叶った状態もまた、ある意味において「絶望」と呼べる。

ま、それでもやっぱり、願いは適度に叶った方がいいけどね。
私は。

ただ、苦労や努力というスパイス無しに何でも理想が叶い、望む先からすべて手には入るとしたら……?

なんてことをねちねち考えたあげくに、本作の「謎」(ミステリー)は生まれた。

ということで。

なんだそれ?何を言ってるのかよくわからん。
と思われる方々、もしご興味あれば本書をお読みくださいますと幸いです。

読んでも何のこっちゃわからなかったら、本当にごめんなさい。
可能性はあります。

はい。

では、これにて。

私が「華雪ルイ」という名義で出版した唯一の小説『デッド・エンド・ヘブン』の自書紹介をさせていただきました。

◇ 映画『冴え冴えてなほ滑稽な月』について ◇

映画『冴え冴えてなほ滑稽な月』(監督:島田角栄 配給:TOエンタテイメント)は、『デッド・エンド・ヘブン』を原作とした映像作品である。

冴えて


我が朋友でもある島田角栄監督は、数々のぶっ飛んだパンク映画を撮り続けてきた映画監督だ。
島田監督のアナーキーで尖った芸風は、SMネタとは非常に相性が良かったのではないだろうか。

脚本と衣装は、私が担当させてもらった。
やはりSMといえばボンデージファッションであり、このビジュアルインパクトは映像作品でしか味わえない。

冴え冴え2

現在、AmazonプライムU-NEXTにおいて配信中なので、観られる方にはぜひご視聴いただきたい。


なお、島田角栄監督は、最近では関西ローカルのサンテレビドラマを連続して撮っているなど、ただ今大活躍中だ。

そんな島田監督だが、どうやら『冴え冴えてなほ滑稽な月』のSM女王様ネタはたいそう気に入っていたようで。
その証拠に、再度2021年4月~6月放映のテレビドラマ『惑星スミスでネイキッドランチを』にて、ご自身オリジナル脚本でSMネタを披露している。

惑星スミス


SMクラブが舞台で、ヒロインは女王様。
女王様探偵と刑事というコンビは、ここでも登場している。


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そして私も『冴え冴え~』と同様、衣装で携わらせてもらっている。
※本作に登場する女王様三人の私服とボンデージと「亀甲縛り」は、わたくし綾川泪の担当であります。

ってことで、GyaOの配信やDVD販売が予定されていたり、さらにはムック本なども発売されているようなので是非。



◇ ~最後に少しだけ自己紹介~ 私の投稿記事のスタンスについて ◇

noteでは、主に映画、小説などの「作品」について感想を語っています。

「作品」について語ると言っても、そこで繰り広げられる「ストーリー」を通じて登場人物や出来事に感じること、学んだことを述べるだけであり、基本的に「作品」自体の技術とか善し悪しなどをジャッジするつもりはございません。

なので、私が語るのはあくまでもストーリーの中身で得た「感想」であり、「評論」とか「レビュー」といった類のものとはじゃっかん異なるものとなります。

もしかしたら、たまに「面白ポイント」として、作品そのものにツッコミを入れることくらいはあるかもしれませんが、それはマイナス評価ではなく、むしろ「見所」として紹介していると思ってください。

記事として投稿している時点で、私はその「作品」を(偉そうな言い方をすれば)すでに「高評価」しております。
逆に作品として「低評価」したものについては、現時点ではあえて記事にして投稿する予定はございません。

よって、オススメ作品なのか否かと問われれば、投稿している作品は全部、私なりの基準でオススメ作品ですので、少しでも参考になれば幸いです。

と言うわけで。

ここまでお読みくださり大変感謝申し上げます。

ありがとうございました。

綾川 泪

(END)

『デッド・エンド・ヘブン』
初版発行: 2012年10月
著者:華雪 ルイ
発行元:TOブックス

『冴え冴えてなほ滑稽な月』
2012年公開/110分/日本
監督:島田 角栄
脚本:華雪 ルイ
出演:黒川芽以 浜尾京介 澤田由希

【あらすじ】
雑踏の中を、長い黒髪を揺らしながら、一人の女が歩いていく。幼さの残る顔立ちに理知的な視線。細身の身体を包むロングコート。しかし、すれ違う人々は知らない。そのコートの下には、肉体を締め付けるようなボンテージ・ファッションが隠されていることを。女の名は美礼。SMクラブ“ミッド・ヘブン”の女王だ。ある日、美礼は常連客だった男の飛び降り自殺を知る。一つの死は別の死を呼び、やがてM奴隷たちの連続自殺事件へと繋がっていく。捜査の先に浮上する“この世の果ての真実”とは?追い詰められた者の狂気。捨てられた女性の過去。隠された罪。そして―。孤独な魂が傷つけあう、サディスティック・ミステリー。

(「BOOK」データベースより ※Amazon商品説明より引用)

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