「緑」という色名の由来となった鳥と、須勢理毘賣のこと
不忍池の近く上野池之端に「道明」という組紐の店があります。
江戸時代のはじめより装束や武具のための組紐を商っていたそうなので、諸国から参勤交代で江戸にやってきた武士たちの間でもきっと名が通っていたのではないかと、想像すると楽しくなります。
倒幕そして明治9年の廃刀令の後、武具のための組紐はその需要を大幅に減ずることになりましたが、その代わりに幕末の頃から新橋の芸者の間で流行り出していた「お太鼓結び」が「帯締め」という新しい商材を生み出しましたので、今では「帯締めといえば「道明」」という風になっています。
私にとって着物のコーデネイトで、一番重要なのは帯揚げと帯締めの「色」。
道明の「色」は果てしなく多くて、日本人が大切にしてきた色とその名前を受け継いで「今として」アップデートしていますので、自分の狙うスタイルの帯締めの色が見つかります。道明があって本当によかった。
道明から先日手元に届いた「色の便り」が「中緑(なかのみどり)」という色でした。
この色の紹介によると、緑という色は古事記に出てくる「蘇邇杼理(そにどり)」という鳥の色から付けられたそうです。
蘇邇杼理(そにどり)というのは、鴗鳥(そにどり)で、カワセミのこと。
https://note.com/hiho2351/n/n0407ca8e0bfe
あのカワセミの美しい艶やかな翡翠色のことを「そにどり」から「にどり、みどり」と呼ぶようになったのですね。
「緑の黒髪」という表現をずっと不思議に思っていたのですが、緑色というのはもともと「煌めく艶がある」ことがイメージのベースにあるのようです。
その「蘇邇杼理(そにどり)」が古事記に登場する場面がこちら。
オオクニヌシがあまりにあちこちで妻をつくるものだから、激しく嫉妬する正妻のスセリ姫と、危機一髪のところで仲直りする場面です。
ご覧のように古事記の原文は漢文のような万葉仮名のような混沌とした文体で書かれています。漢字が等間隔で隙間なく区切りなく並びます。
「古事記 原文」で検索すると、たいていは読みやすいように改行や句読点や段落下げなどが施されていますが、それは後世の研究者の熱意の賜物なのですね。
長く解読不能だった古事記が解読されたのは江戸時代の本居宣長によってですので、この古事記の世界を中世の人々は知らずにいました。
さらに江戸時代の文書にも句読点はありませんので、この羅列をどこで区切るかは、現代人にとっては大問題。
8行目の「又其神之・・・」以降です。
太字が原文で( )の中は、私のテキトウな読みです。
ソニドリの箇所に行く前に、ちょっと逸れますがオオクニヌシの「わびて」の解釈が悩ましい。
侘び寂び(わびさび)の「わぶ」ですが、いったいどんな感覚なのでしょう。
「気が滅入って」とか「怖がって」等に解釈されていますが、原文には「和備」という文字が当てられています。
手がつけられないほどに、拗(こじ)れて拗(す)ねて怒っている妻を前に、どうしたらいいのかわからなくて、家を出て行こうとする夫。この後の展開を知ると、「和備」はオオクニヌシの心の内を暗示しているようなのです。
もう一つ、気がついたことは、オオクニヌシは出雲から倭国に装束を整えて上って座しに行こうとしていることです。戦いに行くわけではないのです。
奈良の三輪山の近くに「出雲」という地名がありますが(奈良県桜井市出雲)、その理由を密かに伝えている気がしました。
そして3つ目は、オオクニヌシが「歌曰(歌って曰く)」のところ。
古代では、誰かが何かの言葉を発した時に「かたる」と「うたう」の表現をきっちり使い分けているようなのです。
「かたる」は「語る/騙る」で思考的に伝える感じ、つまり頭の声で、「うたう」は心の内を素直に伝える心の声という感じ。
ここで「歌曰」と書かれているので、この後に続く歌は、オオクニヌシの本音なのでしょう。
古歌なので、一文字一音で、五七または時々に四、六の文字の塊が、組み合わさって繰り返されます。
古代の人は、美しい鳥の羽のような衣装をどうしても手に入れたいと思っていたようです。鳥が羽繕いをする様子も、自分の衣装の美しさを確かめている様子とも見ていたようです。
オオクニヌシは、最後は「夜麻(山)」由来の衣が気に入ったと言います。そして引き続いて、愛しい人、私の妻よと呼びかけます。
ここで「夜麻賀多(やまかた)」と「夜麻登(やまと)」という言葉がでてきます。「夜麻」というのはオオクニヌシが出向いて行こうとしていた冒頭の「倭国」のことではなく、「沖津、辺津」の海辺に対する山の方、山の処のことで、文脈からするとスセリ姫の居る場所、出雲(もしかしたら大山)のことを指しているようなのです。
もしかしたら「やまと」という言葉は、もともと「山のところ」という一般名詞で、出雲の人が奈良の三輪山から長谷の方面の山がちなところを「やまと」と呼んでいたのが、倭国のことと混交していったのかもしれません。
そしてオオクニヌシの歌はこう結ばれます。
こんな風に、自分の心の内を推し量られたら、もうホロリです。このあと、スセリ姫は「あなたは男だからあちこちに女をつくりに行くでしょうが、女の私にはあなた一人しかいない」と言ってお酒をすすめます。そしてそのままオオクニヌシは倭国には行かずじまいになりました。
古代には、国どうしが結びつくことと、その国の女を妻とすることは同義となっているようで、古事記にはそうした記述がたくさんあります。
スセリ姫が嫉妬した高志(越)の国の沼河比賣も因幡の国の八上比賣も海辺に近く、ぬばたまの黒衣やカワセミの青衣に喩えられています。
スセリ姫は本当に素直。
「ス」の人。荒び系の過ぎる系のスサノヲの血が濃い。
彼女は嫡后すなわち正妻でしたが、国譲りの後、オオクニヌシはスサノヲの娘のスセリ姫と別れて、天孫のタカミムスヒの娘であるミホツ姫と結婚した。
という記述が『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書にあります。
そして大山の北麓、鳥取県西伯郡大山町唐王(とうのう)は、スセリ姫が亡くなった地といわれ、唐王神社に一人祀られています。
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