ラララ世界_181207_0119

la la la 122. なんでも感性で決めていく。(By 古の魔女)

こんにちは。なんでも感性で決めていく。
しかしこれは「思考」をけして侮(あなど)るものではありません。
わたしはいろんなことをとことんまで考えるタイプで「沈思黙考」という言葉をとても美しいと思っています。だからこそ個人的に人に言われたくない言葉、嫌いな言葉に「あまり考えすぎないようにね」という言葉があります。どうして? 思考ってとっても大切で美しいものなのに、そんなことを軽々しく人に言うの? ってわたしは思うのです。考えたい、とことん。

けれど不思議なんですけど、小説を書いている時って「思考」したことはないんですよね、思考では物語は書けない。ゆだねていく感じ、たゆたう感じ、どの沖につくかわからないけど思い切って漂流する、その勇気が小説を書くときには必要なのであって、だから「頭がいいんですね」と言われると、頭がいいことと小説を書くことは全然別のことだから「?」となってしまう。つまり人を前に動かしていくのは思考だけではないのだということ(当たり前のことですが)。同時にもう1つ。何かをフィーリングで「よし決めた」ってすると今度人は「よく考えなよ」って言いますよね? 考えていると考えるなと言われ、考えないと考えろって言われる。ここいら辺の感じが曖昧で、人は悩んでしまうのではないかしら。

今日書くことは「道案内は魂にさせよ」と内容は似ていると思います。

まず「感じたままに生きる」っていうことをもっと祝福して欲しいと思います。日本にはどこか、感じたままに生きる=欲望のままに生きる=怠惰、とする風潮があると思うんです。でも、感じたままに生きると欲望のままに生きるはイコールではないと思うし、欲望のままに生きる=怠惰という図式があるのに、野心を持つことは奨励されている。でもわたしには、欲望と野心の方がどこか近い感覚のように思います。

感じたままに生きることって、誰かに迷惑さえかけなければ、何も悪いことじゃない。「その日暮らしをしたい」って思うことは悪いことじゃない。だけどそれで行き詰まっていつも誰かにお金を借りているのは怠惰ですよね。
この場合の怠惰さは「その日暮らしをしたい」と言う自分の感覚を守りきれていない怠惰さというか。

今感じていることが、自分のたとえからしかうまく説明できないので、自分の話をさせてもらうのですが、わたしの人生は2月からほぼ白紙になります。そんな中で「絵本を作る」とか「書きかけの長編を書き上げる」とか「英語のタロットの解説書を翻訳する」とか「写真集を作る」とか、いくつか「やりたい」こと、または人がやろうよって言ってくれていることがあって、全部やるんだけど、うん、じゃあまず何からやっていくかな、って思ったときに、最初どうしても思考してしまう自分がいる。つまり物理的に考えてしまう。

言い方が悪いのですが、まず最初に換金できそうなものから着手しようとしてしまう(笑)生活があるから、2月、3月働かないってことを考えるとそういう数字のことを考えるのって至極まっとうだし、そう思考するのって悪いことじゃないんだけど、わたしはこう感じました。
(思考で物事を決めていくと、人生の次の展開は思考の域をでないな)
って。

わたしはこう考えています。
 ”思考” って ”あなた” という会社のナンバー2だと思うんですという風に。
「社長、それだとこの会社はひと月持ちません」
「社長、それだと人がみんな離れていってしまいます」
「社長、明日は絶対10時には仕事を始めてください」

こんな感じ。笑。

でもあなたという会社を司る、トップでありオーナーは「感性」「感覚」じゃないかと思うんです。それを「魂」と小説では言い換えました。

「なんかワクワクするね、OKやろう!」
「いい話っぽいけど気が乗らない」
「明日からパン屋になりたいんだけどどうだろう」

こういう風に大事なことを思いつきで決めて行く、その大胆さが、魂(感覚、感性)にはあるんじゃないかなって思うんです。

でも、だからこそナンバー2の「思考」の存在はとても大切になってきますよね。ワクワクするねOKやろう!という案件が支出過多の場合、そのままだと立ち行かなくなるという問題をどう解決するのか。明日からパン屋になりたいって言ってるけど今うちは酒屋の場合、どうパン屋になるのか。

感覚派、だから考えない、みたいな考え方はわたしはあまり好きじゃないのです。魂や感性を解き放ち自由に動いてもらうためにむしろ考えるというのが大事なことかなと思っています。

”思考” がタフであれば、フィーリングでいろいろ進めて、ちょっと転んだりした時もリカバリしたり、軌道修正できると思います。
”魂” に対して、いい感じに”思考”が寄り添う、そのバランスが大切かなって。わたしが今日タイトルに「思考」という言葉を入れずあえて「感性で決めていこう」としたのは、思考だけでいろんなことを決めている人が多いのではないかな? と思ったからです。

思考だけでいろんなことをジャッジすると「思考」が悪者になってしまう。
感覚のみで突き進みすぎると「感覚」が悪者になってしまう。
タッグを組んで! と思うんです。笑。役割分担うまくして、って。
ボケとツッコミ、逆じゃない? みたいな感じに。笑。

わたしは枠を飛び超えていく1年にしたいなあと思ったので、とりあえず2月以降のことはそこで随時決めて行くことを決めました。
風の向くまま、気の向くまま、その時そうしようと思うことをすることだけに集中して、完全に無計画でいく、という計画です。

これは世の中で語られている「成功論」とは全く逆かもしれません。また成功よりもHappyであること、よりラララ的な日常を目指すものなので、成功につながることではないのかもしれない。けれどそんな風にまずは自分を実験台に、今年1年やっていこうと思います。

今日書いたことはきっとこれまでの人生でもやってきたことなのだと思うのだけど「意識的」に取り組むことは今が初めてなので、これを読んでくださっている不器用さんに対して「こうですよ」と智慧を授けるようには言えません。でもこう思っているんだ、ということを伝えてみます。
12か月のうちにいろんなことが明らかになるでしょう。

それではらるらるらん♪
ラララ世界で会いましょう☆

嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ