現代版・徒然草【64】(第232段後半・意識高い系②)

今日は、昨日の続きで、後半部分を読んでみよう。

③また、或る人の許にて、琵琶法師の物語を聞かんとて琵琶を召し寄せたるに、柱の一つ落ちたりしかば、「作りて附けよ」と言ふに、ある男の中に、悪しからずと見ゆるが、「古き柄杓(ひさく)の柄(え)ありや」など言ふを見れば、爪を生ふしたり。
④琵琶など弾くにこそ。
⑤盲(めくら)法師の琵琶、その沙汰にも及ばぬことなり。
⑥道に心得たる由(よし)にやと、かたはらいたかりき。
⑦「柄杓の柄は、檜物木(ひものぎ)とかやいひて、よからぬ物に」とぞ或る人仰せられし。
⑧若き人は、少しの事も、よく見え、わろく見ゆるなり。

③では、琵琶法師の物語を聞くときに、琵琶の「柱」(弦を張るラインに付いている)が欠けていたので、誰かが「作って付けよう」と言ったら、その場にいた男が「古いひしゃくの柄はないか?」と言っていたので、その男の手を見ると爪を伸ばしていたという。

これは、ひしゃくの柄が応急処置的な意味で琵琶の「柱」代わりになるということを男が言ったので、「さてはお前も琵琶を弾くのか?」と思って兼好法師がその男の手を見ると、やはり爪を伸ばしていたということなのである。

それが、④の文の意味である。

だが、⑤の文にも書かれてあるとおり、盲目の琵琶法師に、そこまでしてやる必要はないと、兼好法師は言っている。

一見、差別発言のようにも思えるが、もともと琵琶の弾き語りは、遣唐使を通じて日本に伝わった芸能であり、目の不自由な人がほとんどだったのである。

そもそも目の不自由な人が特技としているものについて、何を知ったかぶりの余計なお世話をしているのだ、目が見えている我々が恥ずかしいと言っているわけである。それが⑥の文の意味である。

⑦の文のとおり、ひしゃくの柄は、ヒノキで作られているので、琵琶の「柱」の代用としてはよろしくないと、ある人が言っていたことを兼好法師は触れている。

⑧の文で締めくくっているとおり、若い人が良かれと思ってやった些細なことでも、「お前がどれほどの人間だ?(琵琶という楽器の何を知っているというのだ?)」とかえって自分の印象を悪くすると苦言を呈しているのである。

何十年も琵琶の演奏をしているベテランの前で、黙っていればいいものを、自分の知識不足や浅はかな考え方を露呈している。

現代においても、あるあるネタだろう。

講演会の質疑応答の場で、講師の前で得意げに自分の経験をもとに質問してる人。

失礼だってのが分からんかっつーの。

肝に銘じたいものである。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?