【続編】歴史をたどるー小国の宿命(6)

くじ引きで決まった将軍が、「恐怖政治」を行うことになろうとは、守護大名は夢にも思わなかっただろう。

彼らにとっては、まさに「ハズレくじ」を引いたようなものである。

権力者が時として道を踏み誤るのは、自分の足元を盤石(ばんじゃく)の状態にしたいがために、しなくてよい干渉を周囲の人間に対してやってしまう場合に多い。

それは、今も昔も変わらない。

本来であれば、上に立つ者は、部下を信頼して、意見にしっかりと耳を傾けるだけで、組織全体をうまく回せるものなのだが、そこに身勝手な野心が入り込んでしまうと、反感を買うことになり、統率に失敗するのである。

6代将軍の義教の場合、彼自身の激昂しやすい性格も災いした。

自分の権力強化のために、側近の守護大名の家督継承に干渉するようになり、反発されると処罰を与えることが多くなった。

それで、四職として認められていた一色義貫や、七頭の一人である土岐持頼は誅殺されたのである。

その出来事は、多くの守護大名に不安を与え、四職の赤松満祐も、次は自分がやられるのではないかとびくびくしていたようである。

そして、彼は、自分の身を守るため、ある日、自分の邸宅で開かれた宴に義教を招待した。邸宅の周りでは、赤松氏一族が奇襲準備のために待機をしていて、義教が猿楽の鑑賞に夢中になっているところを一気に襲ったのである。

赤松氏随一の武将であった安積行秀(あさか・ゆきひで)に、義教は首をはねられて絶命した。義教には、四職の山名熙貴(やまな・ひろたか)と京極高数(きょうごく・たかかず)が随行していたが、その二人も同時に殺害されたのである。

おそらく、現場は凄惨な光景だったであろう。

1441年6月24日、室町幕府の第6代将軍の義教が47才で暗殺されたことは、幕府にとって衝撃であった。

その後、幕府はどう動いたか?そして、赤松満祐は、その後どうなったのか?

ここから、守護大名同士の争いが展開されていくのである。







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