【続編】歴史をたどるー小国の宿命(33)

秀吉には、家康より1つ年下の妹である朝日姫(あさひひめ)がいた。

朝日姫は、1586年当時、既婚者であり、歳も43才だった。

家康がなかなか自分の臣下になろうとしないのを見て、秀吉は政略結婚を思いついたのである。

そして、自分の妹を強制的に離縁させて、家康と結婚させたのである。

こうなると、家康は秀吉と義兄弟の関係にならざるを得なくなり、しぶしぶ秀吉に従った。

離縁させられた朝日姫の夫は、その後、切腹したといわれている。それが事実なら、なんとも気の毒な話である。

さて、家康を自分の方に引き込んだ秀吉は、関東にいる後北条氏の征伐を計画する。

そして、後北条氏のさらに後ろには、東北地方で実権を握っていた若き独眼竜、伊達政宗が控えていた。

伊達政宗は、父親の伊達輝宗の代から後北条氏と同盟関係にあり、秀吉にとって、彼が後北条氏の味方に付くとやっかいであった。

それゆえ、家康を仲介役として、後北条氏や伊達政宗らに対して、惣無事令(そうぶじれい)を発することで、一時的な牽制をかけたのである。

惣無事令とは、私戦をするなという命令なのだが、散々あちこちに戦を仕掛けてきた秀吉の言うことを簡単に聞き入れる戦国大名はいないことは
容易に想像できよう。

実は、1585年に、秀吉は朝廷に認められて、武士としては初めての関白に就任しているのである。

このとき、朝廷には、第106代の正親町(おおぎまち)天皇がおり、秀吉は御料地を献上するなどして良好な関係を築いていたのである。

つまり、惣無事令は正親町天皇のお墨付きであり、天皇の勅命となれば、各国の大名は従わざるを得なくなる。

1586年は、家康が秀吉の臣下になり、秀吉はさらに太政大臣の地位にまでのし上がる。

正親町天皇は、孫の後陽成(ごようぜい)天皇に譲位したので、後陽成天皇が第107代の天皇となった。

1588年には、室町幕府の最後の将軍だった足利義昭が将軍職を朝廷に返上し、室町幕府は完全に終焉を迎えたのである。

義昭は、将軍職を返上するまで、秀吉とも協調しながら、各国の大名を動かしてきた陰の功労者である。

それについて、引き続き解説していこう。







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