古典100選(22)井関隆子日記

江戸時代の日記文学で、歴史的史料として価値があるとされているものに、『井関隆子(いせき・たかこ)日記』がある。

この時代の女性の日記を読むと、平安時代の『紫式部日記』に比べると、格段に読みやすくなっている。

井関隆子は、1785年に生まれ、1844年に60才で亡くなった。まだ黒船が来航していない時代であるが、旗本の娘として、今の東京の四ツ谷に生まれた。

自分の死期が近くなってきたのを意識して書こうと思ったのか、この日記は1840年から書かれたものである。すでに親兄弟や夫にも先立たれ、寂しさを感じながら書いたものと思われる。

では、原文を読んでみよう。1840年5月26日の日記である。

ふるさとの荒れたるさまを見て、昔の人の嘆きつる歌ども、いと多かる。
そはいみじかりつる都の、年経てあらずなりぬるさま、はた、己(おの)が住めりし里など、いつしかことやうに変はれるを見ては、おのづからあはれもよほすべかめり。 
己が生まれつる所は、四つ屋といひて、公人(おおやけびと)など言ふかひなき者のかれこれ住みわたりつれど、茅葺き板屋など棟々しからず。
おほかた田舎めきよろぼひたる家どもうちまじれり。
一年(ひととせ)如月(きさらぎ)の晦日(つごもり)ばかり、このわたりを行きかひしけるついでに、入りて見けるに、昔住めりし家の跡は草むらとなりぬ。
そこはかとなく分け入るに、しかすがに庭とおぼしきわたりは、植木など枯れ残り、敷石所々にあり。
いたく苔むしたる井筒に立ちより見れば、水のみ昔にかはらず澄めり。
かの「あるじ顔なる」と詠めりしもことわりにて、早くのことさへ思ひ出でらる。
古くおぼえし木どもみだりがはしう繁りあひ、はた、垣のもとに並み植ゑたる桜の木ども、かたへは枯れて、むらむらに残れるが、折知り顔に色めきたれど、花もてはやす人もなかんめるを、誰見よとてかと思ふに、おもほえずうち嘆かれぬ。
この花の木どもは、そのかみ、母屋に向かひたれば、親はらからうち集ひ、春ごとに盃取りつつうち興じもてはやしつるを、今はその世の人、一人だに残らず、ただ我のみ立ち後れて、昔の春の夢語りを、さらに語らふ友もなし。 

言問(ことと)はぬ    花とは思へど    
古(いにし)へを    問はまくほしき    庭桜かな 

奥の方は少しくだりて、片山かけたる坂を行くに、父君の愛でて植ゑつると聞きおきたる、梅の木どもの大きなる、かたへは朽ちなどしつれど、若葉の色いと清気(きよげ)にて、花の盛りには雪とのみ見渡されにしも、ただ今の心地してすずろにもの悲し。

以上である。

日記の文中にもあるとおり、これは前年の2月下旬(=一年如月の晦日)に、自分の生まれた四ツ谷あたりを見に訪れたのだが、そこは草むらだったわけである。

そして、そこにあった桜の木を見て、親兄弟と花見をしたときのことなどが思い出されたが、今となってはそれを語らう友もいないので、「言問はぬ花とは思へど古へを問はまくほしき庭桜かな」と歌に詠み、庭桜とあの頃の話をしたいものだと言っているわけである。

現代の私たちもいつかは通る道であり、友達や親兄弟に先立たれて自分が長く生き永らえたとき、井関隆子のような心境になるのだろう。

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