【続編】歴史をたどるー小国の宿命(38)

二度目の朝鮮出兵では、日本軍は、半島の南部をあっという間に制圧した。

そして、朝鮮半島の南岸に近いところに、3つの城を築き上げた。それらの城を拠点として戦いの指揮を執ったのが、それぞれ、肥後国(今の熊本県)の武将であった加藤清正と小西行長、薩摩国の島津義弘であった。

島津義弘は、島津義久の弟であり、当時は62才という高齢であったが、戦には強かった。実際、島津義弘は、1619年まで長生きし、85才で亡くなった。

一方、秀吉の容態が悪化したのが、1598年の5月であり、秀吉も島津義弘と歳は変わらず、61才であった。

秀吉は、3ヶ月後の8月に亡くなり、そのことは後になって、現地の武士たちに知らされた。

秀吉の死去によって、戦いを続ける意味がなくなったので、島津義弘らの武将は、勝ってはいたものの、頃合いを見て撤退の準備を始めた。

それが、11月だった。

ところが、李氏朝鮮や明の軍が、秀吉の死去を知ってしまい、ここぞとばかりに反撃をする。

逃げ遅れた小西行長は、海上での戦いで、島津義弘らの艦隊に救われて、無事に脱出に成功した。こうして、朝鮮戦争は、幕を閉じることになったのである。

さて、この一連の戦いが行われた間に、秀吉の子どもが生まれたという。

秀吉の子どもかどうかの真偽は定かではないが、このときに生まれたのが、豊臣秀頼である。

1615年の大坂夏の陣で、豊臣宗家の滅亡とともに、23才の若さで自害に追い込まれた悲劇の武将である。

さて、秀吉の死後、いよいよ日本は、江戸時代を迎えることになる。

江戸時代を切り開いたのは家康であるが、家康は朝鮮出兵に参加していなかった。

小田原攻めによって秀吉の天下統一が成し遂げられたあと、家康だけでなく、伊達政宗もほかの東国の大名も、西国へは行かなかった。

だからこそ、その間に兵力を温存し、のちの関ヶ原の戦いに勝利できたのだろう。

ちなみに、家康と関ヶ原の戦いで対決した石田三成は、朝鮮出兵に参加していた。

関ヶ原の戦いが、どのような経緯で勃発したのか、残り2日間で解説していこう。


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