古典100選(15)平家物語

以前のシリーズである「歴史をたどるー小国の宿命」(59)において、平安時代末期の源平の戦いで木曽義仲(=源義仲)が頼朝が差し向けた軍に追われて討ち死にする場面を紹介した。

木曽義仲は、倶利伽羅峠の戦いで平氏の軍に勝利し、その後は、同じ源氏の軍に命を狙われて、悲劇的な最期を迎えるのだが、その様子が『平家物語』でも詳細に語られている。

では、源義仲(=木曽殿)の最期の場面の原文を読んでみよう。

①木曽殿はただ一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日、入相ばかりのことなるに、薄氷は張つたりけり、深田ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。 
②あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。
③今井が行方のおぼつかなさに、ふり仰ぎ給へる内甲(うちかぶと)を、三浦の石田次郎為久、追つかかつてよつ引いて、ひやうふつと射る。
④痛手なれば、真っ向を馬の頭に当ててうつ伏し給へるところに、石田が郎等二人落ち合うて、遂に木曽殿の首をば取つてんげり。
⑤太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を挙げて、「この日ごろ日本国に聞こえさせ給ひつる木曽殿をば、三浦の石田次郎為久が討ち奉つたるぞや。」 と名乗りければ、今井四郎いくさしけるが、これを聞き、 「今は誰をかばはんとてか、いくさをもすべき。これを見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本。」 とて、太刀の先を口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、貫かつてぞ失せにける。
⑥さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。

以上である。

軍記物語である『平家物語』は、作者は不明であるが、鎌倉時代に成立した。武将の最期の場面としては、義仲以外にも、壇ノ浦の戦いにおける「能登守教経(=平教経)の最期」も描かれており、いずれも臨場感あふれる描写が感動的である。

義仲は、原文①②のとおり、松原に逃げたもののそこに氷が張った深田があることに気づかず、乗っていた馬とともに田んぼの中で身動きがとれなくなった。

③④のとおり、そこへ敵が追いついて、兜を目がけて弓矢を放たれて、それが義仲の顔に命中し、義仲は馬の頭に覆いかぶさるように突っ伏し、後ろから敵に首を打ち取られたのである。

⑤のとおり、打ち取られた首は敵の太刀の先に差された状態で周りの目にさらされたわけだが、義仲の幼馴染だった今井四郎はこれを聞いて、自分の太刀の先を口に含み、馬から真っ逆さまに落ちて自害した。

思わず目を背けたくなる文章であるが、これが武士の時代に現実にあった戦場の光景なのである。

ちなみに、頼朝が義仲追討のために差し向けたのは、自分の異母弟である源範頼(のりより)の軍であり、源範頼は義経の異母兄でもあった。

ただ、その範頼も、平氏追討のあとに頼朝に謀反の疑いをかけられ、伊豆に流されたといわれている。

平家物語には、「(平)敦盛の最期」の場面もあり、能登守教経の最期と読み比べてみるのもおもしろい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?