【続編】歴史をたどるー小国の宿命(59)

1641年、庶民が寛永の大飢饉で苦しんでいる最中に、一人の命が誕生した。

のちに、家光の後を継いで4代将軍になった家綱である。

息子の家綱が生まれたとき、家光にとっては待望の長男であり、当時37才だった彼は、家綱を次の将軍にすることを、すぐに決めたのである。

家綱が10才になったとき、家光は病気で亡くなり、家光の希望どおりに将軍に就任した。

ただ、まだ幼い家綱に世の中のことを理解させるのは無理があったので、家光の側近が中心になって、幕政の改善を図っていった。

さて、その側近であるが、家光の異母弟である「保科正之(ほしな・まさゆき)」が補佐役の中心となった。家綱とは、歳が30才ほど離れていて、家綱が将軍になったときは40才であった。

保科正之は、実は、2代将軍秀忠のご落胤であり、千姫(=豊臣秀頼の妻)や和子(=後水尾天皇の后)や家光とは、母親が違っていた。

ご落胤だったので、家光は将軍になるまで、その事実を知らなかった。将軍になったあと、秀忠がまだ存命だったとき、25才で初めて保科正之と対面したのである。

その後の二人の関係は深まり、家光は、自分が亡くなる直前に、家綱の補佐をしっかり行なうように、正之に厳命した。

実は、保科正之は、会津松平家が会津藩の藩主を務めることになったときの初代藩主に、1643年に任命されていた。

江戸時代に入ってから1643年までは、会津藩は外様大名の領地であり、親藩ではなかった。

家光の命で、弟の保科正之が会津藩を預かってから、1868年の戊辰戦争まで、会津松平家はずっと会津藩主を代々務めたのである。

15代将軍だった徳川慶喜の治世に、松平容保(まつだいら・かたもり)が第9代藩主を務めたが、最後の最後まで徳川家に忠誠を誓って、薩長軍と交戦したのは有名な話である。

その後も、松平容保は生き延びて、1880年には、日光東照宮の宮司に任ぜられた。

日光東照宮には家康の墓があり、また、輪王寺には家光も葬られている。

その日光東照宮が、今や世界遺産である。

家光と保科正之の絆が、こんなにも後世まで影響を与えることになろうとは、感慨深いものである。






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