【続編】歴史をたどるー小国の宿命(52)

淀殿が、お市の方の娘であることは昨日の記事で触れたが、昔は、生みの親とは別に、乳母がいたのが当たり前であった。

淀殿の乳母は、豊臣秀吉に仕えた大野治長(おおのはるなが)の母親であり、治長と淀殿は、ほぼ同い年であったと言われている。

治長は、秀頼と結婚した千姫や、秀頼の母親である淀殿を、豊臣家の家臣として仕えながら、そばで見守ってきたわけである。

大坂冬の陣は、とりあえず難を逃れたが、家康との和平交渉で大坂城の外堀が埋められることになったのに、危機感を持てなかったのは不思議である。

そもそも外堀が埋められることによって、本丸への道が地続きになり、攻め込みやすくなるわけだから家康の思うツボなのである。

真田幸村が築いた真田丸も、和睦の条件として取り壊されることになり、大坂城は一気に脆弱な城へと変わってしまった。

そうした状況の中で、大坂夏の陣は、冬の陣の翌年(1615年)に勃発した。

夏の陣とはいえ、時期は4月下旬から5月上旬にかけてであり、5月7日に決着はついた。

真田幸村らをはじめ、豊臣方は、大和路を通って奈良・和歌山方面から追撃してくる幕府軍を迎え撃ったのだが、もとは浪人の寄せ集めでしかない豊臣軍の指揮系統は機能していなかった。

何より、秀頼が陣頭指揮を取っていなかったのである。

しかし、真田幸村の奮闘もあって、家康は本当にあと一歩のところまで追い詰められたのである。

それがなぜ、形勢逆転となったのか。

実は、真田幸村の怒涛の攻撃が功を奏していたとき、大野治長は、秀頼を呼ぶなら今だと思って、馬印(うまじるし)を掲げたまま、大坂城のほうに戻っていった。

この行動が、味方に誤解を与えてしまったのである。

馬印とは、戦の本陣を明確にする役割もあり、馬印を掲げた武将の立ち位置を見て、味方は足並みをそろえた攻撃や防御が可能となる。

ところが、大野治長が、それを掲げたまま城のほうへ戻っていったものだから、味方は「退散」と勘違いしたのである。

その勘違いによって、豊臣軍の陣営は混乱に陥り、その隙をついて、家康や秀忠が率いる幕府軍は息を吹き返したのである。

これには、さすがの真田幸村も、反撃を止められず、負傷しながら退散した。

大阪市天王寺区にある安居(やすい)神社で、一時的に負傷した体を休めていた幸村は、徳川方に見つかり、首を討ち取られた。

明日は、淀殿と秀頼の最期について解説する。大野治長も、最後の奮闘であった。








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