【続編】歴史をたどるー小国の宿命(3)

せっかく譲位したのに、病弱だった我が子(=義量)にあっけなく先立たれてしまった義持は、どんなにか無念だったことだろう。

息子の義量は18才で亡くなり、在職期間は2年足らずであった。

後継者を立てることなく、引き続き義持は、政治の実権を握り続けた。将軍職は、事実上の空位であった。

そんな義持にも、死の影が忍び寄ってきた。

1428年1月7日、自分のお尻の腫れ物を掻きむしったことから、発熱の症状が出た。腫れ物がどんどんひどくなり、加持祈祷や医者の診察も受けたが、座っていられない状態だった。

そして、ちょうど595年前の今日(1月11日)、年始の評定始(ひょうじょうはじめ)が開かれた。当時、室町幕府では慣例となっていた年始の行事であり、いわゆる会議であった。

義持は、当時43才であったが、側近に支えられながら、短時間だけ公務に顔を出した。

それから1週間も経たないうちに、義持は危篤状態になる。義持が危篤状態になる前、周りでは後継者について義持に意見を聞いておく必要があった。

義持は、幕臣たちが自分の死後に決めるように言ったが、側近は困惑し、最終的にくじ引きで決めてよいか義持に確認した。

義持は、次の将軍をくじ引きで決めることを了承し、くじは自分の死後に開封するように言ったという。それゆえ、義持が死ぬまでは、誰が次期将軍のくじを引いたのか分からなかったようである。

1月18日午後10時、義持は敗血症により息を引き取ったといわれている。

当時の医学では、お尻の腫れ物でもすぐに死に至ってしまうくらい、分からないことが多かったのだろう。

さて、くじ引きで決まった6代将軍の義教は、まさか自分が跡を継ぐことになろうとは思っていなかっただろう。

こうして、歴史上稀に見る後継者選びが決定したのである。




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