【続編】歴史をたどるー小国の宿命(73)

今から190年前となる1833年、日本の夏は「冷夏」であった。

この年は、米が記録的な不作となり、農村の百姓の多くが餓死した。天保の大飢饉の始まりである。

現代においても、同じく末尾が3となる1993年に、私たちは記録的な米の不作を経験している。

このときの政権は細川内閣であり、緊急対処策としてタイ米が市場に出回り、私も若かったが、一時的にタイ米での食事を余儀なくされた。

だが、天保の大飢饉当時は鎖国状態であるし、米が作れなければ、代用品がない限り生きていけない。

天保の大飢饉は4年間も続き、そんな状況下で、桂小五郎と坂本龍馬は、それぞれ長門国(今の山口県)と土佐国(今の高知県)に生まれたのである。

その頃、佐久間象山は20代半ば、勝海舟は10代半ばであった。二人は、それぞれ別々の地で、学問や剣術、砲術や兵学を学び、知識を吸収していったのである。

ちなみに、今年は勝海舟の生誕200年にあたり、勝海舟が生まれた今の東京都墨田区ではイベントが開かれている。

興味がある方は、この8月にぜひ訪れてみてはいかがだろうか。

さて、天保の大飢饉が収束した1837年3月、江戸では将軍が交代することになり、第12代将軍に、家斉の次男の家慶が就任する儀式の準備が進められていた。

しかし、世の中は飢饉の影響で混沌としており、米価高騰の中で、大阪の豪商たちは、家慶の将軍就任祝いのための米を買い占めて町奉行所に差し出し、町奉行の役人はそれを江戸に廻送していたのである。

こうした大阪の町奉行所における役人の汚職行為に激怒したのが、同じく元役人だった大塩平八郎である。

今で言うならば内部告発にあたり、実際に、大塩平八郎は、江戸の幕閣あてに建議書を書いて送ったのである。

大塩は、各地で起こる百姓一揆に心を痛め、町奉行所に対しても、元役人として救済策を打ち出すように意見を出したのだが、聞き入れられなかった。

陽明学者でもあった大塩は、自分の蔵書5万冊を売却して、自ら百姓たちへの救済資金を捻出したのである。

大塩は、自宅がある大阪の天満橋付近で、東町奉行の跡部良弼(あとべ・よしすけ)と、西町奉行の堀利堅(ほり・としかた)を巡回中に襲撃する計画を立て、自分の門人たちにもひそかに打ち明けた。

ところが、門人たちの一部が驚いて、大塩と距離を置き、はじめは従っていた人も直前に辞退するなどしたため、襲撃計画が実行前に町奉行所に漏れてしまった。

続きは、明日である。










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