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観察日記⑤母

正直、母については難しかったです。高校の恩師と話す機会があり、ようやく心の整理がつき筆をとりました。

◇◇◇

私の家は父、四人兄姉
私が小学3年生の頃に離婚した。

母は私たちの母兼助産師。
家のはなれで開業して四人の子育てと両立していた。本当に凄かった。

家の冷凍庫に胎盤があったのは子供ながら印象的だった。

母は離婚する時、「お母さんは子育てもひと段落したから離婚したいんだ」と話した。上の三人兄弟と母の仕事を見ていた私は小学生ながら「お母さんは一生懸命頑張ったんだから、もう好きに生きていいと思うよ」と伝えた。今、考えるとませてるなと、強がっていたなと思う。

本当にいなくなる時に「離れていてもあなたは私の子供だから。」と言われた。

中学生の中ごろまではよく電話で話をしていた。母と祖母(おばあちゃん)は少し拗れていて、母はもっと愛されたかった。おばあちゃんは七人兄弟で日本が戦争していた頃から、子供ながら頑張っていたから自分の子供には厳しくしてしまうようだった。2人は面と向かってそれが言うことができなかった。電話するたびに2人の日常のささいな話からそれを感じていた。

私もまた、母にずっとためていた寂しさを伝えられなかった。背中を押した分、言い辛かった。

離婚してから一度家に来た時、母は家を掃除し色々言って帰っていった。父と子供、確かに家がすさんでいたのはしょうがない。なんとか毎日を生きている私はなんとも言えない思いに駆られた。

学校のことを聞く人は家にはいなくて、とにかく迷惑かけずに生きていく。ちゃんと起きて朝ごはんを用意して学校に毎日通う。具合が悪ければ自分で病院に行く。学校に行ってしまえば授業と部活で家庭の事情なんて関係ない。クラスの三十何人の一人でしかないし、担任一人がそこまで気に掛ける必要なんてない。何気ない友の家族の話に羨望してしまう私がいた。友に私のことを話して気を遣われて本当の笑顔が消えてしまうのが怖かった。私は色々求めすぎで生きているだけで幸せなんだといいきかせた。

ふとした瞬間に感じるそうしたことが少しずつ降り積もって、自分の心が辟易していたのはわかっていたから母と話すのをやめた。

彼女とはもう何年も話していない。

小学生の私が彼女に言った言葉に今の私は後悔していない。けれど、彼女に「あなたは頑張ったね」と言われることに対して素直に受け入れられる日はもうこないと思うのだ。

母と血のつながりがあるのだから、いつまでも母の子供でいられると思っていた幼い頃の私はもういない。彼女と私の共通点は血のつながりでしかないと思うのが今の私だ。

年を重ねるごとに母もまた一人の”ひと”だと思うようになってから彼女への寂しさと彼女に対する憤りが胸に混在する。

彼女の年齢に一つ近づく度に、私の想いは変化していくはずだ。共感していく部分。共感していきたくない部分。なんとも言えない思いに"憤り"と名がつくように。

離婚した時に家を離れていた長女が、彼女のことを私の分まで心配してくれるから。私があなたに対してこの矛盾した感情を心に抱えて生きていくことをどうか許してください。




あなたが大嫌いで大嫌いで、本当は大好きだ
(Mrs. GREEN APPLE 「春愁」)


Thank you for bringing me into this world
This flower for you 




子供は大人になるまで自身が愛に飢え愛を注がれていたことに気づかない。

◇◇◇


ここまでお付き合いいただきありがとうございました。


「春愁」は先週知った曲で、私が中学の頃に抱いていた思いそのものような気がします。


侘びしい春の風が通り抜けていく。



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