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学校の当たり前を辞めたを読んで

お久しぶりです。笑笑
学校の授業まとめをやるとか言ってたのに1つもやってない・・・。本来なら学びのアウトプットをしたいところでしたが、一時的に精神を病んでました。
少しずつ復帰して参りましたので、ノート更新します✌️
大学の課題でこの本を読んで発表しなければならないので、久々に教育書を読みました。もっと勉強できたらなあ・・・とか色々思いますが、要約と感想をつらつらと書いていきます笑笑
まぁ、書くのめんどくさいのでアホほど前置きが長いんですけど。笑笑
あ、そういえば今回から、iPadとBluetoothのキーボードを使った更新です。今までケータイで打ってたの骨が折れてました。流石に書いていきますか🥺

初めに

工藤先生の考え
「学校は子供達が社会の中でよりよく生きていけるようにする」ために存在している。そのためには、「自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する資質」すなわち自律する力を身につけさせて行く必要がある。
(とまの先生は、互いに自由を認め合う=よりよく生きるためと言ってたから似てるね。原点は変わらないのかもね。そしてこの本では自律というワードが結構出てくる。)

将来の夢や希望を持てないという生徒も多い。理想とギャップに嘆き自暴自棄になっている子供もいる。経済格差も広がっている。
この要因として、社会の中でよりよく生きるようにするという本来の目的を見失い、そこで行われている教育活動と実社会との間に乖離が起きている。

手暑く育てられすぎた子供は自ら考え判断決定行動できず自立できないまま大人になってしまい、何か壁にぶつかつと誰かのせいにしてしまう。

なぜこのようなことが起きているのか
「手段が目的化しているから」
子供達に必要な力を身につけるための手段で有るはずの学習指導要領や教科書が目的となり、消化してしまう対象となってしまっている。
例えば、服装検査なんてそうだよね。
(教員も思考停止してる🥺)

重要なのは、固定概念にとらわれず、上位の目的を見据えながら、最適な手段を見つけ出すこと。学校という存在自体も手段の1つに過ぎず、目的ではない。
(生きたいように生きるため、だったらもし学校以外でそれが得られるならその選択肢もありだよね。まあ、俺は学校いったが割と当たり障りもなくていいかもだけどそうでない生徒もきっといるんだよなあ・・)


一章 目的と手段の観点からスクラップする(見直しする)
(ここまでで1000字は草。これ普通に今日中に終わらない説ある。飽きたので専門教養やります。ちなみに、キーボードで打つの死ぬほど良質なアウトプット説ある。紙に書くよりもアリかもしれん。じゃあ続きは帰宅してからで)

宿題は本当に必要か?の話。
自ら学習に向かう力をつけて、学力を高めていくには、自分がわからない問題をわかるようにするシステムが必要。しかし、多くの宿題において、これが欠けている。
(これ本当か?宿題は定着という意味で重要やと思う。復習だし。人間は忘れるけんよっぽど退屈じゃない限りやるべきだと思う。でも、生徒に応じたレベルとか、全部わからないとかはどうしようもないから、一緒にやるとかの措置が必要な気がする。)
「わからないことがわかるようになる」には
①わからないことを聞いたり、調べたりすること。
②繰り返すことで定着させること
→自分の特性に合った方法を見つけること
疑問に思ったことはすぐ口に出し、互いが対話をしながら、もし不合理な状況があれば、解決改善しようとする。そうした習慣が労働生産性を高めるのでは?
(なぜ?と思うこと、興味を持つことは重要。そしてそれを解決しようとすることも死ぬほど重要。せっかく巻かれようとしたタネを放置するのは興味の種を失うことになる勿体無い)
しゅくだい出さない批判について
・教員が宿題を出すのは子供達の関心意欲態度を図り、評価の資料とするためなのでは?専門性を発揮しなくては。数字にたよらず、子どもの成長や再現性を読み取るのが専門性なのでは
(見えないところの評価なので難しいけどそれを専門性として頑張りたい。これも手段が目的になってるのかな。)

定期考査について
テストの点数を取るために一夜漬け等してもそれは最大瞬間風速に過ぎないし、何でも一夜漬けで済ませる悪くせをつけてしまう。
(確かに一夜漬けの弊害は大きいけど、プランだてて行うのも重要。そのための、単元テストはあり。だけど、工夫次第ではどうにかならん?無理なんかな?順序立てて計画的に学習に取り組むための工夫とか難しいんやろな・・・)
テストは通知表をつけるために都合がいいから行っていると主張。
学力をある地点で切り取って評価は意味がある?
学習に早い遅いは関係ない。
テストは学力の定着を図るためのものでなくてはならない。目的と手段のねじれ(え?テストってその目的なの?定着度チェックだと思ってた。その思考なら別にいいよね。特に積み重ねの科目なんて定着してないといけないのに。)
単元テスト祭ちゃんれんじ。
受験に向けた授業ばかりでなく、日々の授業の中でプレゼンやディスカッションを行い、それを評価する本質的な学びが必要ではないか。
(うん、そう思う。知識のチェックなんてしょうもない。最低限必要だけど。)

固定担任生の廃止
大人が先回りして、手をかけすぎて育てられた子どもの多くは自律できなくなってしまう。自分では解決できない問題やトラブルに直面すると、うまくいかない原因を自分以外の周りに求め、容易に他人のせいにしてしまう傾向がある。
(考える力は無くなりそう。後者はともかく)
自律することを学ばない子供は物事がうまくいかなくなると、担当教員に責任転嫁する。勉強がわからなければ授業がわかりにくいといい、忘れ物をしたら聞いていないと言い訳する。担任が好かれたいと思って行った手厚い指導の結果がこれです🥺
また、クラスだと当たり外れのクラスが出てくる。
学級崩壊はまとまりのあるクラス都内クラスの差が激しい時に起こりがち
(果たしてどっちが先?ハズレだからまとまりなくなる?まとまりないから差が開く?よくわかんねえ)(合わないリスクへるところではかなりいと思う。特に受験期の生徒とかだとそこはとても重要だと思う)
幅広い教員と関わりをもち価値観を広げることができる。
(頼れる教員をみつけることができる。公教育のいいところは色んな先生と遭遇できる。会う先生合わない先生いる中で様々な人に触れるのはいいこと!)

運動会のクラス対抗廃止(生徒自身)
自分のミスで周囲に迷惑をかけてしまうこともあり得る。それによってクラスの仲間から攻められ、人間関係に日々が入ることもあり得る。
全員が楽しむには、運動が苦手な子にも居場所を作る必要がある。もし、勝敗を意識してしまったら、勝ったクラスを除く大半は悔しく、苦手な生徒は肩身の狭い思いをする。
(とまの先生と梅澤先生の本にも書いてあったかな。勝利至上主義の弊害。一人しか幸せになれないのは辛いよね。)
個人に自己犠牲を求め、個性を認めないような組織は本質的に強くなれない。
(中長で草。個人が生きて集団が生きる必要がある。)

学校において、子供たちが立てる目標は「立てただけで終わり」のスローガンになりがち。教員の中には目標を立てること自体に価値があると思う人もいるがそれこそ手段の目的化
(それに対する意識が低いと意味ないよね。本当に自分が本当にそう思ってるなら、自ずとやるよね。充実のための目標が形式的になるのはもったいない。)

心はみんな違っていい
人の価値観、考え方はみんな違って良い。人は行動こそ大切。

みんな仲良くしましょう。によって多くの人々が苦しい思いを。子供が排除されることになってはいけない。
「(みんなが同じことを同じように」「肩には待った教育」とまの先生)

第二章「手段の目的化」ー学校教育の問題

本来の目的を再確認して、最適な手段を再構築する。そうしたプロセスで改善を図っていく。
(いつの間にか目的を見失うってことはありがちかも。例えば楽しくなるためにデュエマやゲームしてんのに負けてイライラしてしまうとか。)
学校へ行くこと自体は社会の中でよりよく生きて行くようにするための1つの手段でしかない。(EX将棋の例)
何らかの事情で学校へ行けなくても、学校以外の場所にも学びの場はあるし、社会とつながることもできる。逆にいえばテストでいい点数とっても社会でよりよく生きていけるとは限らない。この点においてもう少し柔軟に考えるべき。
(とはいえ、学校で多くを学んだ方が効率が良いのは確かだと思う。こんな感じなので、学校へ通わない選択をすることには目的意識と勇気が必要だよね。)
不登校の人は自分や他人を恨んでるかもしれない
「自分を責めないでほしいし、何も変わらなくても良い」
(自分を生かせる世界を探すことできるよね。ある意味不登校の方が
非日常にチャレンジできて長い目で見たら良い学びがあるかもしれない。)

手段である学校は子供達がよりよく生きていくためにどのような機能を担うべきか。
社会では「コミュニケーション」「経済活動」を行うためのスキルが必要。
何を学んで(カリキュラム)、どう学ぶか(学び方)
(ふーん。・・・よくわからん)

新学習指導要領ではアクティブラーニングが求められている。
→人が社会で生きて行くスタイル時点でアクティブラーニングだから。
(確かに社会に出たら一方的な講義スタイルで受け取るだけでお金がもらえることなんてないよね。いんぷっと過多になって、アウトプットが疎かになっているのは間違いないと感じる。知識は使うためにあるからね)

しかし、教育者関係は、学習指導要領に基づい手作られた教科書をこなすことや定められた時間数を守ることに意識が向きがち。地域の実情や目の前の子供達に合わせて、柔軟に教育内容を工夫することはほぼ見られない。(EX一斉ばかり、もっと外に向けろの話P74)
学習指導要領に教員の意識が縛られていて、自由な発想が奪われてしまっている。目の前の子供たちが社会の中でよりよく生きていくために、何が必要なのか、多くの教員や教育者関係が自分の頭で考えることを忘れて、教科書をこなすことに終始してしまっている問題点がある。目的のない授業が行われている無駄な現状。
(もっと実生活に生きる学習ができたらな。身体を動かして、目と感覚を最大限に活かして。一度体験したら簡単には忘れない体験学習をこれからの保健体育では重視したいところ)
学習指導要領自体が教員の自由な発想を忘れさせて「社会に開かれた教育課程」の阻害要因になっているのは何とも不思議なことではない。教科書を使って授業を行っているが、子どもの状況に合わせて、ないようを加えて教えたり教材を工夫して教えたりすることはいくらでもできる
(実際、実生活で生きていく上で、常に保健体育の授業に利用できるものないかなっていつも探してるけど、保健体育はいかに実生活との関連を作るかだし、勉強してそれが体験できたり、理論と実生活が一致したときに「わかった!」が発生して学びは楽しくなると思う。弾力的な改良が必要だよね。)

いじめ調査はいじめの発見対応という目的達成に向けた手段として行われる。その手段自体にこだわり、調査結果の増減やその原因追求だけど行うのは本来の目的を失っている。
(いじめ件数ガー多いのは表面化してる、いい、悪いとかっていう議論はよく見るけど、そうでなくて、そこの裏側には苦しんでいる生徒がいて、それをどうするかってところに標準おくべきでよね)

トラブルを学びに帰る
二人を仲直りさせることを目的にすると、教員が仲裁に入り、二人を表面上だけでも仲直りさせたことにする。
重要なのは「トラブルをどう学びに変えるか」
そして子供たちがトラブルを学びに変えていく課程において、大人である教員が適切に関わり、大人に対する信頼感を増していくのが大事
主体的に仲直りするプロセスを体験させることに指導のポイントを置く必要がある。生徒自身がどうすればいいのか、自分の頭で考えなければならない。(大人に頼るのではなく)そうでなければせっかく起きた対立を自分たちの力で解決するという貴重な経験を失うことになる。
(積極的な仲裁では周りが何とかしてくれるという思考に陥りがちかなと思う。実生活において必ずトラブルや対立は起こる。それをどう折り合いをつけて?解決していくか。もしくは解決しないのか、などたくさんのセンタ駆使を自分たちで見つけるのは大事そう)
対立をどうするかと言うところを備わっていいないと、対立を恐れて意見を言えなくなったり、関係性が終わってしまうなどの危険性がある。(自分たちで回結する手伝い程度できれば良いのではないかと)
一人で超えられないハードルに出会った時に、超えられるようサポート

リーダー
同質性を求め、異質な人間を排除したり、教育指導によって心を変えたりしようとするリーダはーは決して成功できない。優れたリーダーを育てるためにも、教員が多様性を認め、自らの指導のやり方を見直すというところから変えていかなければならない。
(圧倒的異質は淘汰されても仕方ないけど、どう折り合いをつけるかというのは重要だなと)

このページは大事なところばかりですのでうつさせてもらいました🥺
おもろかったら生徒も聞くよね。

ルール
誰が何のために作ったかわからない仕組みやルールが至る所にある。
不要なルールや仕組みは時代とともに、常に見直していく必要がある。しかし、学校という組織は硬直的で前例踏襲に陥りがちな側面あり。結果として意味不明なルールが何年も残っている。
(長い組織ならありがちだよね〜その時の最良が今の最良とは限らないし、誰もが変えるべきと思ってるのに変えないルールとかあるよね。部活時代もゴミみたいなルールあったわwチームがーチーむがーとかいうけど、実際はチームのことなんて表面上にしか考えてないと思われるし、そもそも個人を潰すチームはナメクジだと思ってます滅べ)
日々の仕事においては、ルールや仕組みが何のために存在するのかを最上位目的にして問い続けるのが重要。問題ある時に、その本質を見極めて優先順位をつけて、迅速に対応することが重要。(理不尽に屈する教育であってはならない。とまの先生の本に書いてあったかな。組織は常に変わるべき。あと生徒が決めたとか言って実際は生徒を操ってるだけの教員うせろ、何が主体性やぼけ。そんなんで忖度して主体性奪われるんだ)

問題は作られる。
学校教育では大人たちが問題と捉えるからこそ、問題行動とみなされてしまうのではないか。個の発達に目を向ければそもそも問題ではなくなるのではないか。何かができたくても、それは発達の一場面であり、周りの環境を少し帰るだけで解決できるのではないか。
「小一プロブレム」は工夫次第で問題なくなる場合もある。逆に座っていなさいと叱られることで損なわれる自己肯定感について考える必要ある。大人たちが作り出した問題で子供たちやそれを守ろうとする大人が疲弊するのは残念。
大人が撮るに足らない問題を取り上げ、言葉にしてしまうことで問題となってしまうことがある。(EX受験どう?→プレッシャー)
大人が良かれと思ってかけた言葉で救われることもあれば、追い込まれることもある
(塾の生徒が勉強しない時、どうするか。今一度考えさせられる。我々が問題と言ってるから「問題にしてしまっているだけ」なのかもしれない。じゃあ逆にどうしようか。それは保護者との面談や様子を注意深く観察すべき。もしくは、なぜ我々が問題と思う行動をしてしまうのかというところを汲み取りたい。)

第三章 新しい学校教育の創造

社会とシームレスな問題解決型カリキュラム作り
これからの社会でどのような資質能力(コンピテンシー)が求められるのか、それを踏まえて、どのような学び方が良いのか選ぶことが重要。
「非認知スキル」やコンピテンシーはとても重要な力であり、経験を通してしか身に付かず、一度身につくとその力は人生において繰り返し発揮してくれるもの。コンピテンシーを身につけるには、問題解決型のカリキュラムが必要。
チームで問題解決を行うと、対立が生まれ、イライラすることもある。しかし、そこではみずからの感情をコントロールすることも重要。一連の家庭を通して学んだコンピテンシーを言語してメタ認知して生徒が考え肩を理解し、自分のものとして使えることだ大切。
教師がみんなで頑張ったというサクセスストーリーで感情的な青春ドラマのようにまとめラリたりとしている現状・・・(形式的な学び)
(形式上の学びは本当に意味わからないし、活動あって学びなしの状況も避けたい。生徒が何を学び何を獲得し、人生をよりよく生きるための糧にすべき)

ノートの取り方で学びが変わる。
「見返すことがないのであればノートは取らなくても良い。
=文字を書いたり読んだりするのが苦手な生徒もいるので、先生の話を聞くことで授業内容を理解するのが得意なら、それでも構わないし、別の方法で学ぶことができるのならばOK

黒板をうつすのが日本の学校では主流。しかし、うつすだけだと、書き写すことが目的となる。その間の思考は停止してしまう。後になってノートを見返しても綺麗な文字が並んでいるだけ。ノートを取るのは、後で見返して、学んだことを定着することが目的。

=自分の頭で考え。気づいたことやまとめを書くことが不可欠

(そのように「まとめ」や「考察」「わかったこと」を書く作業は重要。中一時、理科の先生が言ってたことを思い出す。実験から何がわかって、それを考察するのが最も重要であるし、学びであると。実験を行って結果が出ました終わりでは意味ないと。保健体育に言い換えれば、「目標創出」の学びであるかな)

また、きづき、疑問、まとめ、行動目標、ようやく、狙い、結論を書くスペースがある。(要約は重要!言いたいことを簡潔に短く言える能力は重要だよねえ・・・頑張ります)

ノートの評価はしてはいけない。
(評価の材料ではないし、見せるためのノートであってはならない9)
(あ、ちなみに・・・このノートなんて人に見せるつもり0ですwだから、自分がわかるところとか、いろいろ分けて書いてます。でもこの本に関しては長くなってるなあ・・・🥺)

生徒たちが手帳でスケジュールを管理
「学習計画表」って必要?
実社会において自分の勤務時間を手帳に書き込みよく働いたと満足感を得る人は多くない。(しかも、実際の学習時間とか基本的に盛るでしょwww中学生の時やったけど、何も意味なかったと思う。計画なんて基本的に弾力的に変化するタイプだったし、その時その時に意味を見出してやってた。確かに計画は重要だけど、進度や苦手で途中で変化するし帰り得ないから、もうさいしょから書く必要ないかなと。まあ書くに越したことはないんだろうけどw)

明確な目的の宿泊研修
対立が起こることを自覚することが目的の1つ。様々な人がいる多様な社会の中で生きている(=価値観を違いがあることを学ぶ)
繰り返し対立が起こる中、異なる意見を1つに集約するにはどうすればよいか必死で知恵を絞る。途中で意見がぶつかり合う葛藤や苛立ちにも直面するが、同時にそうした感情をコントロールすることの大切さも学ぶ。いずれも社会で必要とされる力。
物事を1つに決定していく際には、折り合いをつかたり、多数決で決めるのではなく、最上位の目的に向けて、対話を繰り返し、合意形成を図ることが重要であることを学びます。
(これはよく部活の時も思ってたけど、多数決って「少数派を蹂躙する対決」と思っている人多いよね。少数意見の尊重って学校で習わなかったのかなwともかく、多数決で決めるのしろ、少数意見にどう折り合いと付けるとか、そんなのが学びなんじゃないかなと)

旅行会社とのタイアップによる企画型の取材旅行
(個人的に一番面白かった話)
「生徒たちに旅行の企画者になってもらう」
生徒が旅行会社の社員になったと想定して、京都奈良へのツアー企画を企画考察し二泊3日の修学旅行を取材旅行と位置付けて実施する。(ターゲットや年齢性別を明確にして、取材旅行。またレクチャーを受ける)
お店の人や街の人への聞き取り取材を行い、パンフレットに記載するための写真撮影。(この状況でもちろん観光もできるし、ただ見るだけでなく学ぶこともできるし、楽しむことができる。)
さらに、パンフレットやプレゼンすることで、相手に伝えるという学びもある。
(相手に何が伝わるかとか、誰かを楽しませるという視点は一生死ぬほど重要だから、是非やりたいと思う所存)

失敗するからと消極的になるのはすごく勿体無い
異質なもの新たなものに触れると自己理解が深まり、挑戦しようというオチベガ生まれる。
(失敗するから・・・と言って発言しなければそこからは学びは生まれない。保健体育でも心身の安全がなければ思い切った運動はできない=失敗して笑われるような環境では挑戦できない。つまり、失敗こそ受け入れる。失敗を恐れて大人が過剰に案内するのはナンセンス。それこそ子供の学びを奪っている。)

第四章 当たり前を徹底的に見直す学校作り

(生徒にやらされる勉強をさせてはいけないが、それは教員に対しても同じ、教師が主体的に動く環境作りを。生徒に言うことはまず教員自身が意識しないとね!)

学校をコミニティースクールに

保護者のクレームを間に受けて対応した結果子供が自律する機会が失われたこともある。
保護者に当事者意識を持ってもらい、同じ目的を共有し合意形成を図っていくことが必要(第四章はわかりきったことばかりなので割愛。前半もそうすればよかったw)

第五章 私自身が思い描く学校教育の新しい形

特になし笑
先生曰く、掃除が信頼を得やすいと。
①指導にはメリハリを。特に命や人権に関わることとそうでないもので差をつけよう。②子供達を複眼で見よう。悪い情報を共有するのではなく、子供の良いところを見つけて情報共有しよう。


と言うわけで学校の当たり前を辞めたのまとめが終わりました。
正直理想論もあるし、たくさんのお金がうご浮いてそうなのも事実。
しかし、より良い教育を目指すのは重要だ。
思考停止して教科書を読むだけの授業が面白いか?そんな熱意のない先生の生徒指導が心に響くか?そうではないと確信する。
目的を考え生徒がより良い選択をする手助けをしていきたい。
また、様々ない改革を行っていく上でも「生徒のため」を忘れないようにしたい。こうだったらいいなあ。。。も先生だけが思っていることだったら生徒からしたらただの害悪行為。生徒と先生が協働して共にいい学校を作っていきたい。さらには保護者や地域もね!!!

ここまでで9000字超え。びびった。卒論より文字数多い。
では、また。

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