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「椿の庭」冨士純子の見せる日本的な美しさ。日本の心と風景が壊れていく図を刹那く美しく描くということ

写真家、上田義彦の初監督作品。昔から写真家の映画は、美しい構図を基本に、普通の動画作家とは違う世界を創ることが多い。ふたむかし以上前に斎藤耕一の映画に感化された日を思い出したりもする。そして、ここに提示されたものもやはり、写真家が作ったと言われて、理解できるものだった。映画全体が、彼が撮りたかった一枚の写真のような息遣いをしている。それは、私のような映画ファンには少し物足りないものにも感じられたが、過度な装飾をせずに世界を創る様は、古き良き映画を思い出させたりもする。そう、2021年の今に見せられると不思議な雰囲気もしたが、癒されるような貴重な時間がそこにあった。

主演の冨士純子は、今75歳。こういう死に至る前の役ができる歳になっている。そして、いまだその品格を保った美しさには、ただただ魅了される。緋牡丹のお竜さんが、良い感じで歳をとって、一人生きていたら、こんな感じかもしれないという緊張感も感じた。もしかしたら、冨士さんも、これが最後の主演映画になるのかもしれない。そう考えたら、スクリーンに向かう時間は貴重だった。

話は、シンプルだ。冨士の相方が亡くなって、古く長い時間を過ごした家には、彼女と、日本語を習っている孫(シム・ウンギョン)が一緒に住んでいる。家は相続税の問題もあり、売った方が良いと言われ、考えあぐねながらも、人生を顧みる冨士。そして、春夏秋冬が流れる中で、彼女は決心するという流れ…。余計なサイドストーリーみたいなものもない。

この映画で観客に語りかけるのは、冨士純子の視線だったり、呼吸であり、風であり、海の姿であり、庭の在り方だったり、虫たちの吐息であったり、金魚の呼吸であり、日本の四季だ。

最近の世の中を表現するには、パソコンやスマートフォンは欠かせない道具になっているが、この映画では、そんなものは一切出てこない。出てくる機械といえば、古めかしいプッシュフォン(本当は黒電話でもいいと思うが、一歩進んでいるところが監督の意思なのだろう)とアナログレコードをかけるプレイヤー。レコードに針を落とすシーンを久しぶりに見た気もする。音楽は画に描けるものだったということを思い出した。情報は新聞から得るものというスタンス。テレビやラジオのノイズがないのも印象的だ。

外国の人が見たら、ここに提示されたものは「不思議な国、日本」と思わせるものかもしれない。庭の樹々や花や虫たちも、みんな語りかけるようにスクリーンの中に存在する。こういう場所の住みたいと思う人は多いだろう。だが、こういう自然との共存みたいな場所ほどお金もかかる。本当に、訳のわからない時代である。

そして、冨士純子の所作というか、佇まいには、圧倒される。着物を着るシーンが二度ほど出てくるが、そういうものに美しさを感じる喜びがあった。食事のシーンなども自然に美しい。シム・ウンギョンが魚を綺麗に食べられないシーンでも、普通に美しく食する姿にただただ感嘆させられる。こういうのは、口で能書きをいうものではない。ただただ、以心伝心するものだ。その先に食事の美味しさがある。食事の席でマナーを問うたり、美味しいか?などと聴くのは野暮そのものだと言っているようなシーンだった。

途中、清水紘治との会話の中で、物に記憶が移り、そのものがなくなると記憶がなくなるという話がある。その通りだと思う。まさに、東京の街はそれを繰り返し、住居や物に記憶のない世界になったのだと思う。その末に、心もなくしていっている…。

ラスト、静かに朽ちていく冨士の姿は神々しく静かな雰囲気。そして、クレジット前の家の解体シーンは、作り手の怒りのようにも感じる。言葉少ない映画なだけに、観る人によって感じ方も違うだろう。映画ってやはり、過度なセリフはいらないと思う私である。そういう意味では、久々に映画らしい映画を見せていただいたという感想だった。


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