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「マイ・ブロークン・マリコ」永野芽郁、ほぼ一人芝居で映画を成立させる凄み!

監督は「ロマンスドール」のタナダユキ。主演は、昨今、女優力をすごく感じる、永野芽郁。この二つの要素で、早く観たい一作だった。結果的には、すこぶる斬新な小品でありながら、永野芽郁の振り幅の広い芝居で、自分の世界を目一杯開いて仕上げられたという感じの快作。もちろん、タナダ監督の映画創りの繊細さがこういう作品に仕上げているのは確か。

こういう一人称の語り的な映画っていうのは、昔からあったとは思う(あまり、自分の記憶の中から引き出せない)。だが、ここまでしっかりと、人の内在する世界を映像として表現させられることは、結構、奇跡に近い気がした。映画を見てから原作マンガの最初のところだけ読ませていただいた。(後でじっくり読もうと思う)監督は、原作を読んだ瞬間に映画化を考えたというが、マンガの世界を壊さないように、そこに内在する感性みたいなものを映像にしたかったのだと思う。マンガの絵面に内在するパワーみたいなものを出すのは結構な作業である。そして、映画はマンガの世界をそのままコピーしようとしている。そして、そういう具現化を成功させるには、それ相当の力のある女優がいる。そして、高校生と20代半ばと、両方をちゃんと演じられる女優をという難儀もある。ある意味、自然の野生感と、美しさを持っている人だ。その白羽の矢が永野芽郁に当たったということだろう。

それは、正解だった。というか、永野芽郁の女優としての初期の代表作ができたと言っていいだろう。映画全編85分という、最近では短い映画だが、その85分間、ほぼ全編で永野芽郁を堪能できる映画であり、彼女が主人公に見事にシンクロしているし、生きていく根性的なものが、観客に多くのことを訴えかけてくる。共演者の奈緒も、窪田正孝も、ここでは、永野芽郁の心に内在する声でしかない。とはいえ、この二人がうまく永野に対応していることで、映画はすごいパワーを持つことになるわけで、すごい助演とも言える。

自分に何も言わないで死に至ったマリコの遺骨を持って、ちょっとした記憶から「まりがおか岬」を目指し、旅立つ永野演じるシィちゃん。そこに目的があるわけでもない、知ってる人がいるわけでもない、一緒に旅に出たいというそれだけで、・・・。そう、この映画の主人公にさまざまな目的などない。ただただ、親友の死が受け入れられず、どうにか自分の心を整理したいというだけだ。そんな中で、知らぬ地でひったくりにあい、一文なしになるも、金を借りて、それを飲んでしまうアバウトさ。その野生的な部分に、人間の強さみたいなものも見える。酒場で飲んでる親父たちの声も、この映画では、主人公の内在する声だ。死んでしまうと血迷う永野に、それをみていた窪田が「生きていてください」「生きていないと、死んだ人もなくなっちゃうから」みたいなことを言う。そう、ここが、結構大切なところ。人と人が出会って、お互いの中に存在が増幅していく感じ。それがあるから、ここで、永野は何かを求めて彷徨うわけだ。「親友の自分に何の一言も残さないでって・・・」その彷徨うきっかけの答えが最後に出てくるのが、とても素敵な映画だ。

ここに出てくる親友二人とも、世の中のある一面から見れば、そんな幸福な二人ではない感じに造形されている。そして、二人にとっては、二人でいる時のさりげない会話が幸せな時であったわけだ。そして、その友人の死に対してここまで、自分の暮らしを捨てて、なんとかしようとしてくれる友人はすごいわけである。

どんな人であっても、死んだ時に、親族以外で思い切り泣いてくれる人が一人でもいたら、それはとてもありがたいことだと思う。多分、この映画、観終わった後に、一人一人がいろんなことを考えてると思う。そして、生と死と言う問題を少なからず考えたりするわけだ。なかなか、凄い映画でしたよ。多分、時代など関係なく、いつ観てもこれを観て感じる人間が存在するような作品であると思う。永野芽郁、ただただ、女優として大きくなっていくのが恐ろしい感じでもある。そして、それを演出しきったタナダ監督に拍手!これ、海外に持って行っても評価されるのではないですかね。


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