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「L.A.コールドケース」解決していない実話を通して、現代の法治国家の虚しさを問う?

HIPHOP界の大スター“2パック”と“ノトーリアス・B.I.G.”の射殺事件、という実話を元にした映画、1990年代に起こったという事件だが、私は全然知らなかった。人種差別、警察内部との癒着、それに伴う利権みたいなものが混沌と混じるなか、その真実を追う、元刑事(ジョニー・デップ)と、記者(フォレスト・ウィテカー)の二人の懐古と現実の捜査の中、さまざまに浮かび上がる事実。そして、最後には、元刑事は命を落とし、記者がその真実を追い続けるという話。

こういうのを見ると、アメリカという国が、民主主義の国でありながら、個々人の癒着でやりたい放題だということがわかる。裁判所にある、天秤を持つ女神があえて出てくるのは、司法取引みたいなものがあるのに、天秤で測ってる場合では無いだろうという感じではあった。

しかし、私自身が事件自体をよく知らないこともあるが、あまりのセリフの応酬に、英語がいまいち苦手な私は、人物の相関図を考える間も無く、映画を追随する形になってしまった。そして、過去と現代が交錯することもあり、頭の切り替えが難しい。そう、吹き替え版で見たい映画だったりしたんですよ。

そんな中でも、主役の二人の存在感は出色で、この二人の過去の怒り、今の怒り、ずーっと怒りの中にいるわけだが、それを見ているだけで、活劇としては十分に成立していたりする。そして、犯罪の本質を追いかけることは、国の本質にある嘘を徹底的に暴くことになる。そして、それを暴かないと、普通に無視されている黒人の殺人事件などは、表沙汰にさえならないのだろうということもよくわかる。

ジョニーデップが、息子の野球見物に出てくるシーンが何度も出てくるが、アメリカにおけるプロスポーツの存在意義は、形だけの民主主義の中で、スポーツがとりあえずはルールに則って行われているという安心感なのかもしれないなどと思ったりした。

昨今、日本の民主主義も、アメリカに右に倣えで、似たようなことが多いように思える。そして、法律など形だけで、それを飛び越えられるように、立法府の人々が平気で振る舞うことも確かだ。つまり、憲法など改正したって、政治家にとっての民主主義は、自分達が優位に立って、自分達の思うように酒池肉林を楽しむことなのだろう。だから、国会もまじめに開かないし、国民のためになる法律など作ろうともしないのが現実なのだ。本当に、自民党を壊滅させないと、日本は劣化の一路を辿るのみである。

そんなことを考えながら、もう一つ、気分の晴れない映画だった。全ての犯罪には、それなりに利権を持つものに有利なように、勝手に筋書きが作られ、そして、それが法的な歴史として残っていく。真実は一つなのだが、その真実をいじくり回して、勝手にパラレルワールドを作って葬るみたいなのが21世紀のスタンダードなやり方だということなのか?

映画として、ただ混沌の中に、こういうテーマを描くのは間違ってはいないが、やはり、最後には何かしらの希望がほしいと思ったのは私だけでは無いだろう。

まあ、ジョニー・デップの演技を見るだけで、2時間は結構充実してはいたが…。



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