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運命に愛された女院【建春門院の話・2】

鎌倉時代初期に健御前が記した古典作品『たまきはる』の一部を漫画化してご紹介します。
今回は健御前がはじめて建春門院の御所に出仕したときのお話です。

*原作『たまきはる』(健御前 著/使用テキスト:岩波書店 刊 新日本古典文学大系 50『とはずがたり・たまきはる』 )
*同じ『たまきはる』から、鳥羽天皇皇女・八条院の登場部分を漫画化した記事はこちら↓

『たまきはる』建春門院篇・1はこちら↓

まだ12歳だった健御前(女房名は「中納言」)は、親たちの話し合いによって、突然、上皇のお妃である女御に仕えることになりました。
混乱した状態のまま女御に会い、その美しさに陶然とします。

原作ではこの場面について、
「几帳のほころびから女御の顔がのぞいた」と書かれているだけなのですが(そのあと、女院の美しさに驚いたのは原作どおりです)、何もせずに几帳の向こう側がはっきり見えるとは思えず、女御が自ら手を伸ばして几帳の帳を少し引き開けたのかなと独自解釈して絵にしました。

几帳は数枚の縦長の布を並べて垂らしたもので、布同士は上下は縫い合わされていますが、まん中あたりに縫われない部分があります。これが「几帳のほころび」。
この隙間から、健御前は女御のお顔をはじめて見たということです。

最後に付け加えた解説にも描きましたが、ここに出てくる「女御」は、後白河院の妃・平滋子(しげこ)を指します。
このときはまだ「女御」でしたが、すぐに「皇太后」になり、翌年には「建春門院」の院号を宣下されて、「女院」と呼ばれる身分になりました。

また、今回描いたマンガで健御前の隣に座っているこの女性↓

健御前の姉「京極殿」

こちらの女性、京極殿(きょうごくどの)と呼ばれる女房なのですが、実は主人公・健御前の実のお姉さんです。

健御前の父、歌人である藤原俊成(しゅんぜい/としなり)は大変な子沢山でした。
歌人として有名な藤原定家(ていか/さだいえ)もそのうちの一人ですが、全体としては娘が多く、そのほとんどが宮仕えをしており、しかも女房の中でも特に身分が高い上臈(じょうろう)ばかりでした。
松薗斉著『日記に魅入られた人々』によると、女房として仕えた形跡のある俊成の娘は、総勢15人もいたようです。

その中でも京極殿は、後白河院の側近を務めたほどの女房でした。
このときから十年ほど後、後白河院は平清盛と仲たがいして幽閉されてしまうのですが(治承三年の政変)、女房二人だけ院に仕えることを許され、そのうちの一人が京極殿でした。

京極殿は健御前とは母親が違いますが、女房だらけの姉妹たちの面倒をよく見ていました。
健御前が身分にふさわしくない扱いをされていると思って、建春門院に不満を伝えてきたという出来事も、『たまきはる』には記載されています。

余談ですが、京極殿の娘も健御前と同じく建春門院に仕えた女房で、のちに平家の貴公子・維盛(これもり)と結婚して、男女ひとりずつの子どもを産みました。
この貴公子と、子どもたちにまつわるお話も、平家物語の印象的なエピソードのひとつです。
とても哀しいお話なのですが、興味のある方はぜひ読んでみてください。

平家物語は古典作品の中では比較的平易な文章である上(漢字は多いけど)、作品の特性上、文章に特有のリズムがあり、ぐいぐい読ませてくれます。
私は角川ソフィア文庫版の『平家物語』(上・下巻)を読みました。
現代語訳はついていませんが、そのぶん短くまとまっています。

それから、先に公開した『たまきはる・八条院篇』の冒頭に出てきて、健御前が「姉上」と呼びかけている女性は、また別の人物になります。
八条院御所に仕えていた坊門局(ぼうもんのつぼね)という女性のつもりで描きました。
この女性も京極殿同様、健御前とは異腹の姉妹ですが、やはり親身になって健御前の面倒を見ています。

俊成ファミリーの結束力の強さを感じますが、上で引用した松薗斉著『日記に魅入られた人々』(臨川書店)や、定家関連の書籍、定家の日記『明月記』について書かれた本などには、この一族の話に触れたものが多くあります。
特に『日記に魅入られた人々』は、それ以外にも幅広い時代のさまざまな人物の素顔を取り上げた本で、とても読みやすいうえ内容も大変面白いので、おすすめです。

次回も『たまきはる』から、「建春門院御所の日々」をお送りします。
マンガはもう描き上がっているのですが、文章が用意できず…。
近々アップしますので、よろしくお願いします。

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