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紅茶詩篇『もしも奇跡が消えた夜に』

 もしも世界から奇跡が消えたら、最初に何がしたいだろうか。
 肌寒い夜の下で、私は妹の顔を見ていた。
 私がそう尋ねると、妹は私の肩に肩を寄せた。
 妹が、奇跡の類いを信じてはいないことを、私はよく知っていた。
 私は漠然と杳(とお)くにいる尊い何かを信じている。この子はそんな私に寛容なだけで、何かを信じてはいなかった。
 私は奇跡なんて、信じていない。
 でも、奇跡は、世界からなくならない、きっと。
 私はある小説の話をした。ある憂国の文豪の、著作の話だった。
 その登場人物の話をした。
 うつくしい女盗賊が、敵役とした探偵が死んだと見せかけたときに呟いた言葉だった。
 奇跡は、起こらなくなったのよ。
 戯れのようにそう嘯いてみる。
 これは、私が好きな場面なんだ。私の敵が今きっと、何処かで死んだふりをしている。
 対するものが消えて、起こらなくなる物事。私に敵なんているのかな。伏せかけた目の端に、曖昧に曇った苦笑いのための微動が起こる。
 信じるか否かではなくて、なくならないもの。
 妹はぼんやりとした口ぶりだった。奇跡がこの夜から消えたら、私が信じているものがこの夜から無くなったら、この子はどうするだろうかと思ったんだ。どんなふうに抜け殻になるやもしれぬ私の傍に、この子はいてくれるだろうかと、私を嫌いになってしまうのではないかと、不安になっていた。
 もしも消えたら。その、もしもが、ないのね。
 私は泣きそうな声を抑えて呟いている。
 ああ、この子は大丈夫かもしれない。
 信じなくていいものを、信じてはいない子。
 私は妹の手を取った。そんな曖昧なことを尋ねた自分の方が、奇跡なんてこの世界に最初からないような気持ちでいることに気づいてしまった。
 とうに青い星をなくしていたような、そんな心地で夜を見上げた。
 自分だけの奇跡から、その虚しさに祝福を受けていた。
 私は信じなくていいものを失った。つくりものだった神を。
 妹の手を取って、妹に手を取られているかもしれなかったけれども。
 つないだ手の温もりに、本当のうつくしい光が、昏(くら)く儚く灯っていた。本当の尊いものの、人間の想いの及ばぬ世界に御座(おわ)す、本当の神々が温かさを感じるようなきらめきが、確かにそこにあった。

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