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ペトリコール

「それ、“ベイカーベイカーパラドクス”っていうらしいよ」

 改札を抜けてすぐ、逆さまに落ちていくような裸体のモニュメントの周りでは、待ち合わせをする人でごった返している。

「服の選択ミスったかもなぁ…」
 蒸し暑さにやられ、シャツの中へ風を送り込みながらスマホを取り出す。聞こえてきたそのワードを検索すると、手持ちぶさたな午後の2時は終わり、3時が来る。

 音と共に震えるスマホの画面に目をやる。“ 右 ”とだけの通知が来る。スマホから視線を“ 右 ”へ、ビルの反射に大きくもない目がより細まる。薄く白い視界の中に、サンダルと透き通る白い足首が覗く、はっきりとした、ティールグリーンのスカート。真っ白な九分袖のシャツからは、ミニマルなデザインの腕時計、すっとした手元が日傘の柄を握る。呆れ顔の僕に気づくと、さした日傘を少し掲げ、ばつの悪そうな顔がこちらを見ていた。

「その時計、意味あるんですか?」

 「ごめんって、女の子は準備に時間かかるっていうでしょう?」

「それに右って、もっとちゃん」

 「そんなことより、ねぇ?みて?この傘買ったの、スカートも初下ろし、感想は?」

 怒られる事をさける様に、彼女は僕の言葉を遮る。
切れ長の目は涼しげで、そして意地悪に細められている。これだ、この顔にいつもやられる。

 高い湿度にじわぁと、汗がにじみ出る。悟られまいと僕は言葉を探す。

「梅雨明けは…まだってきいてたけど」

 「なにそれ、天気?服については?」

「とても夏っぽい。天気予報、はずれると良いですね」 
 
 「え、雨ふるの?服の選択間違えたかなぁ…?」

「相変わらず雨女なんですね」 
 
こちらを睨む彼女。
「…せっかく前髪いい感じにできたのになぁ」

僕は知っている、彼女が傘を買った理由を。
僕は知っている、彼女が今日服を下ろした理由を。
僕は知っている、彼女が前髪を作った理由を。
僕は知っている、彼女がここにいるのはついでという事を。 
僕は知っている、彼女に好きな人がいる事を。

「でも、傘あるじゃないですか?」
 
 「うーん晴雨兼用じゃないのよ、この傘。」
 「せっかくかわいいの見つけたんだけど…」
 「でもきっと大丈夫よ、ね?」

 後ろめたさと、汗でへばりついたシャツがうっとしくて、聞こえないフリをした。それは願いでいて、すがるような問いで、彼女の声が梅雨の空気に揺曳していった。

彼女は知らない、その人は雨男だと言うことを。
彼女は知らない、その人には彼女がいることを。
彼女は知らない、今日雨が降ることを。

 雨でもないのに、傘を差す。ふられまいと、傘を差す。降られないよう、振られないようにと。

僕は知っている、今日雨が降ることを。
僕は知っている、その雨はその人を留める雨にはならないことを。
僕は知っている、差した日傘の向こうの顔を。
僕は知っている、今日彼女が雨を降らす事を。

ペトリコールの匂いがする。
水溶性の想いが溶ける。
日傘女は傘を差す。
雷が鳴らずとも。
雨が降らずとも。
君が引き止めてくれたなら、僕はここにいる。
なんて歌をいつかきいたな。

「そこの…坂をのぼった先にあるパン屋、青い看板の。」

 「制服の子がいる辺り?」
 
「そう、中にイートインがあって、パン屋なんだけどケーキと紅茶もあって」
「美味しかった…から、持っていったらどうですか?」
 
 「うん、じゃあそうする。ありがとう」

「雨、ふられないように祈ってますね」

 坂をのぼってゆくスカートの揺らぎに、声をかけ引き止めそうになる。逡巡する僕の背中へ、断ち切るような風が吹いた。鞄から折りたたみ傘を取りだす。

彼女は知らない、僕が嘘をついた事を。
彼女は知らない、さっき調べただけでほんとはそのパン屋に行ってない事を。
彼女は知らない、僕が今日服を下ろした事を。
彼女は知らない、いたずらに目を細める癖を。
彼女は知らない、太陽が実は似合うことを。
彼女は知らない、本当は。 

彼女は知らない、僕が彼女を好きな事を。

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