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原書のすゝめ:#22 Kvinden i buret

昨年の暮れのこと。

興奮のあまり、つぶやきにしてはなかなか大きな声で叫んでしまった。


なんと楽天koboでは、この最新刊が電子書籍で試し読みができるらしい。


もちろん言語は、デンマーク語である。
文法はおろか、単語ですらほぼ未知の言語だ。

……。

読みたい……。

デンマーク語だろうがなんだろうが、最新刊が読みたい。となると、方法はただ一つ、ここはシャンポリオン法*しかない。


いつのまにかスマホにデンマーク語の英語辞書アプリがダウンロードしてある。ついでに、特捜部Qシリーズのスウェーデン語版が5冊ある。スウェーデン語はまだほとんどわからないが、5年前にストックホルムを訪れた際に英語版とフランス語版の辞書を2種類手に入れたし、英語版の文法書も2冊ある。そして、デンマーク語とスウェーデン語は似ている。


これだけ揃えば、いけそうじゃないか?


と、軽薄かつ単純極まりない発想で最新刊の一番乗りを果たそうと勢い込んでみた。だが、その前にやっておかねばならないことがいくつかある。


本作のファンであればすでにご存知かと思うが、特捜部Qシリーズは2024年3月現在、日本では9巻まで刊行されており、今回の作品はThe Latest book 最新刊かつThe Last book 最終巻
さらに、この10巻目は第1巻で起きたステイプル釘打機事件が絡む重要な巻なのだ。したがって、最新刊を読む前にこのステイプル釘打機事件について軽くおさらいをしておく必要がある。


まず最初に取り掛かったのは、図書館からシリーズ第1作の『檻の中の女』(原題:Kvinden i buret)を借り、手持ちのスウェーデン語版『Kvinnan i rummetと照合しながら最新刊を読むために必要と思われる固有名詞や地名、人名などの重要語句を抜粋する作業である。それから、デンマーク語と英語の電子書籍で試し読みできる箇所と照合する。

今回ばかりは、こうした地味で地道な作業を抜きにして未知の言語である原書を読むことは困難である。なんといっても、邦訳はおろか、スウェーデン語版も英語版も出版されていない最新刊は、いきなり辞書を引いただけでは歯が立たないだろう。

山登りには、それなりの準備も装備も必要だ。


ということで、おもにステープル釘打機事件に関する箇所の照合から始めたわけだが、まもなく問題が発生した。

つまり、短いながらも邦訳にところどころ「訳抜け」があることを発見してしまったからである。


たとえば、スウェーデン語版の以下の部分。

 ”Peter Vestervig. Jag kommer från Station City. Jag ska ingå i Viggos team.”

「ピーダ・ヴェスタヴィーです。ヴィゴのチームに配属されることになりました」

< 邦訳のメモを取り忘れたため拙訳 >


太字は邦訳で訳抜けしていた箇所である。
おそらく原書のデンマーク語版はスウェーデン語版と同じだと思われるが、残念ながら電子書籍の試し読みの範囲外だったため確認できなかった。


なお、訳抜けの箇所は「シティ署から来ました」の意である。ついでだが、シティ署はHalmtorvet 通り20番地にあり、Polititorvet 通り14番地のコペンハーゲン警察本部とは近い。


本作の邦訳はドイツ語からの重訳なので、どこで訳抜けしたのかは判断がつきかねるが、おそらくドイツ語の方ではないかと思う。

というのも、あくまで個人的な印象だが、日本人の翻訳には、巧拙はあっても総じて原文に忠実な訳が多い一方で、欧米の翻訳家は得手して雑な文章が多いような気がするからである。

この点については、前にも書いたことがある。


そういえば、スウェーデンミステリの「マルティン・ベック」シリーズが初めて邦訳された際は、英語からの重訳であった。そのため、スウェーデン語翻訳家の柳沢由実子さんがスウェーデン語からの直訳を希望して、数年前に新訳が出版された。

また、柳沢さんがアイスランドの作家であるアーナルデュル・インドリダソンに作品を邦訳するにあたり底本にはスウェーデン語版を使用したいと申し入れたところ、彼の作品の翻訳の中でスウェーデン語が最も優れているということで作者から邦訳の快諾を得たと語られていたことがあるが、そもそもスウェーデン語はノルウェー語やデンマーク語と同じ北ゲルマン諸語だから納得である。

このことから鑑みて、デンマーク語の原書を読むにあたっては、ドイツ語版よりスウェーデン語版を参考にした方がよさそうである。


それでは、いよいよ実際に言語を比較しながら、第1巻の『Kvinden i buret』(檻の中の女)の一部を読んでみよう。



◆デンマーク語
Hardy og Carl og Anker var sædvanen tro nået frem til drabsstedet på Amager før nogen af de andre og stod allerede med de hvide engangsheldragter, mundmasker, handsker og hårnet, som procedurerne foreskrev. Det varkun en halv times tid siden, at den gamle mand var fundet med sømmet i hovedet. Turen fra Politigården var ikke noget at snakke om.

◆スウェーデン語
Hardy, Carl och Anker hade vanan trogen nått mordplatsen på Amager före de andra och stod redan iklädda vita engångsdräkter, munskydd, handskar och hårnät, som reglementet föreskrev. Det var bara en halvtimme sedan den gamle mannen hittats med en spik i huvudet. Resan från polishuset hade gått planenligt.


単語の違いはあるが、ほぼ同じ文章になっていることが素人目にもよくわかる。では、この部分の英語はどうなっているかというと、

Hardy, Carl, and Anker, as was their custom, had arrived at the murder scene in the suburb of Amager ahead of the others, and they were already wearing the white disposable coveralls, masks, gloves and hairnets that procedures prescribed. It was only half an hour since the old man had been found with the nail in his head. The drive from police headquarters took no time at all.

『Mercy』 transrated by Lisa Hartford 
Penguin Books

と、こちらもほぼ原文どおりに訳されていた。

次に日本語訳だが、太字部分が訳抜けしていたもののほぼ原文どおりであった。

ハーディとカールとアンカーは、いつものように真っ先に(アマー島郊外の)事件現場に到着した。まずは白いつなぎを着込み、マスクをつけ、手袋をはめ、頭にはヘアネットをかぶった。いつもと同じ手順だ。頭に釘が打ち込まれた老人が発見されてから、三十分と経っていなかった。本署からアマー島までは大した道のりではないし、(以下次の文章に続く)

<『檻の中の女』吉田奈保子訳>


さらにこれに続く文章を読むと、

◆デンマーク語
Den dag havde de god tid før ligsynet. Så vidt de vidste, var drabschefen til et eller andet reformstrukturmøde med politidirektøren, men der var ingen tvivl om, at han hurtigst muligt ville dukke op sammen med embedslægen. Intet kontornusseri kunne holde Marcus Jacobsen fra et gerningssted.

◆スウェーデン語
För en gångs skull hade de gott om tid för en brottsplatsundersökning. Vad de visste varkommissarien på något slags reformplaneringsmöte med polismästaren, men han skulle naturligtvis dyka upp med rättsläkaren så fort som möjligt. Inga byråkrater i världen kunde hålla Marcus Jacobsen från en brottsplats som denna.

 That day they had plenty of time before the body would be examined. As far as they knew, the homicide chief was at some sort of reorganization meeting with the police commissioner, but there was no doubt that he would arrive as soon as he could, along with the medical examiner. No office hassles were going to keep Marcus Jacobsen away from a crime scene.

検死まで十分な時間があると聞いている。となると、構造改革の協議とやらで局長のところにいたはずの殺人捜査課の課長も、監察医とともにすぐにお出ましになるだろう。殺人現場でマークス・ヤコプスン課長の姿を見ないことはまずないのだ。

と、いずれも原文に忠実であった。


こんな具合に言語比較をし、英語版のデンマーク語とスウェーデン語の辞書を引き、少しずつ読み進めていった。文法はほとんど理解してないといってよいが、とりあえずデンマーク語の感覚をつかむために、最新刊を読むのに必要と思われる箇所を、初めの数章を抜粋して読んでみた。

こうして、最新刊の原書にチャレンジするという無謀な企みに着手したわけだが、本書が未読の方のために、第1巻の内容について軽く触れておこうと思う。


* * *

2007年1月26日、アマー島でステープル釘打機で頭部に釘を打ち込まれたギーオウ・マスンという人物の遺体が発見された。殺人捜査課のカール・マーク警部補と、そのチームであるハーディとアンカーが現場に駆けつけたのだが、謎の人物たちの襲撃により、アンカーは殉職、ハーディは首から下が動かせなくなる後遺症を負った。カール自身は軽症だったが、仲間を救えなかったというトラウマを抱え、休職を余儀なくされた。そもそも人付き合いの悪いカールは、どのみち警察本部内では厄介者扱いされていた。

ところが、議会で警察組織の改革が持ち上がったのに乗じて、上層部は「特捜部Q」などどいう特別捜査班を組織し、ここにカールを事実上左遷することを決定した。特捜部Qが扱う事件は過去の未解決事件。文字どおり警察内の壁際族である。

この特捜部Qに、アサドという「シリア人」が助手として配属された。特捜部Qが取り上げた最初の未解決事件はミレーデ・ルンゴー失踪事件だった。


続きはぜひ本書で読んでいただくとして、参考までに以下の方の記事をご紹介しておきたい。



さて、こんなふうにして始まったデンマーク語への挑戦だが、読書として楽しいのかと尋ねられれば、この上なく楽しいと私は答えたい。

そして、こんなふうだから私の積読はいっこうに減らないのである。


*シャンポリオン法:シャンポリオンはフランスのエジプト学研究者で、ロゼッタストーンに書かれたヒエログリフ解読をしたことで知られる。ここでは複数の既知言語をもとに未知の言語の読解にあたるという意味の筆者の造語。



<原書のすゝめ>シリーズ(22)

※このシリーズの過去記事はこちら↓



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