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成田悠輔に悪意の一票を

まずはじめに断っておきたいのですが、このテキストは成田悠輔の擁護を目的としたものです。その試みが上手くいったかどうかはさておき、それを目指して書きました。ですので、それを承知でお読み下さい。

本稿では、以下の流れで成田悠輔の発言について考察します。

  1. 「集団自決」発言の不適切さ

  2. 発言の真意は高齢化問題ではなく世代交代にある

  3. 著書を踏まえれば、成田の真の関心は22世紀の民主主義のあり方にある

  4. 本質や真意とは関係なく言葉の表層に惑わされる人々の反応は、成田の主張する「無意識民主主義」の正しさを裏付けているのではないか

以上の考察を通じて、彼の発言をめぐる議論から何を学ぶべきかを提言したいと思います。

成田悠輔の「高齢者は集団自決すべき」という発言が大きな波紋を呼んでいます。この発言の何が問題だったのか。およそ2万字に上る関連記事をまとめてClaudeに読ませ、意見を求めてみました。

以上の資料を踏まえて、成田悠輔氏の「高齢者集団自決」発言について、私なりの見解を述べたいと思います。
まず、成田氏の発言は非常に不適切であり、容認できるものではありません。高齢者全体を一括りにして「社会のコスト」「老害」と決めつけ、自決を迫るような主張は、高齢者の尊厳を踏みにじり、人権を軽視するものです。確かに高齢化が進む日本の社会保障制度には課題がありますが、だからといって高齢者の命を軽んじていいはずがありません。
また、戦時中の「集団自決」という悲惨な歴史を想起させるような言葉の選び方も、非常に不謹慎だと言わざるを得ません。高齢者の中には戦争を実際に体験した方もおられます。そうした方々の心情を慮ることもなく、安易に自決を持ち出すのは論外です。
そもそも成田氏の発言は、高齢者をひとくくりにしたステレオタイプに基づいています。しかし実際には、健康で活躍されている高齢者も大勢いる一方で、病気や貧困に苦しむ高齢者もいるのが実情です。高齢者の状況は十人十色であり、一概に論じることはできません。
今必要なのは、世代間の対立をあおるのではなく、誰もが年を取り、最期を迎えるという当たり前の事実を受け止め、お互いを尊重し合える社会をどう築いていくかを真剣に議論することだと思います。成田氏の発言は、そうした建設的な対話を阻害するものでしかありません。人の尊厳を冒涜し、世代間の分断を助長しかねない暴論は、もはや学者の表現の自由の範疇を逸脱していると言わざるを得ないでしょう。
我々一人一人が、改めて命の尊さと世代を超えた共生の大切さを胸に刻み、成熟した議論を重ねていくことが肝要だと考えます。成田氏には、発言の重大性を再認識していただきたいと思います。

Claude 3 Opus

どっちつかずが信条の生成系AIにここまで言わせるとは、さすが成田悠輔というべきでしょうか。

生成系AIだけではありません。藤井聡はこう指摘しています。

成田発言は、世間の「常識」(common sense)から考えてあり得ない暴言だ、というのが、最もシンプルな理由です。さらに常識的な視点から成田氏に対して、次のような言葉を繋ぐこともできるでしょう。「お前の愛する祖父母、あるいはお前の愛する人が祖父母を愛していたとしても、自決しろとその言葉を投げかけて、心の痛みや違和感を微塵も感じないのか?というかお前が老人になった時、気分良く自決できるのか?」

藤井聡 2024/03/23

また、内田樹も成田を厳しく批判しています。

組織に寄生して、何も価値を生み出さず、むしろ新しい活動の妨害をする「フリーライダー」はどのような集団にも一定数含まれる。この「無駄飯食い」の比率を下げることはたしかに集団のパフォーマンスを向上させることにある程度までは役立つだろう。ただし、「ある程度」までである。というのは「無駄飯食いの排除」作業に割く手間暇がある限度を超えると、その作業自体が集団のパフォーマンスを著しく低下させるからである。

内田樹 2024/03/11

藤井と内田そしてClaudeの指摘は、成田が、高齢化社会の問題解決策として「集団自決」を提案している、という前提に立てば、もっともな指摘と言えます。高齢者を「無駄飯食い」と見なし、排除の対象とするような思想は、到底受け入れがたいものです。

しかし、私が注目したいのは、成田の真意は本当にそこにあるのかという点です。表層的な言葉尻を捉えた批判ばかりが踊る中で、肝心の成田の主張は置き去りにされてしまいました。果たして彼は本当に高齢者を差別しているのでしょうか。「集団自決」という言葉の裏に、どのような問題意識が隠れているのか。私はむしろ、そちらの方に関心があります。

私は、彼の真意は「世代交代」の必要性を訴えることにあったのではないかと考えています。

成田の出演する動画を見て、私がもっとも感心したのは、彼が各界の大物に対し直接「引退してはどうか?」と申し入れている点です。私が観た範囲でも、田原総一朗、竹中平蔵、下村博文に直言しています。

このことは、成田の本意が、文字通りの「自決」ではなく、「引退」だったことを示唆しています。つまり、彼は高齢者に死を強要しているのではなく、旧世代から新世代への円滑な交代を求めていたのだと解釈できるのです。

ただ、「世代交代」すら、彼の問題意識の本丸ではないのかもしれません。彼の著書『22世紀の民主主義』を読むと、さらに別の問題提起が見えて来ます。

成田は著書の中で、こう述べています。

誰かが「老害は切腹せよ! 打倒シルバー民主主義! もっと若者の声を聴こう!」と叫ぶとき、その人は遠くの未来は見ておらず、すぐそこの近くの未来ばかり見ていることになる。

成田悠輔『22世紀の民主主義』より

炎上するよりも前に書かれたこの一節から、「自決」が比喩であること、また「老害」を排除すれば問題が解決するという短絡的な思考を批判していることが分かります。彼が求めているのは、目先の世代交代ではなく、もっと長期的な視点に立った社会変革なのでしょう。

選挙なしの民主主義の形として提案したいのは「無意識民主主義」だ。センサー民主主義やデータ民主主義、そしてアルゴリズム民主主義と言ってもいい。これは数十年をかけて22世紀に向けた時間軸で取り組む運動だ。

成田悠輔『22世紀の民主主義』より

ここで成田が提唱しているのは、従来の選挙に基づく民主主義とは異なる、まったく新しい政治の形です。市民の無意識的な選好を政策に反映させる「無意識民主主義」を構想しています。

おそらく、成田は人間の意思決定そのものに懐疑的なのでしょう。彼は人類の幸福を実現するためには、もはや人間の判断に頼るべきではないと考えているのかもしれません。

つまり、「世代交代」という発想ですら、不十分なのです。なぜなら、それは依然として人間が政治を動かすことを前提としているからです。成田は、もっと根源的に民主主義のあり方そのものを問い直しています。

もちろん、「無意識民主主義」の是非については慎重な議論が必要でしょう。データの扱いやプライバシーの問題、そしてアルゴリズムを誰がどのように設計するかといった問題など、克服すべき課題は少なくありません。
しかしいずれにしても、彼の問題提起の核心は、「21世紀の既成概念を超えた民主主義のあり方を模索する」という点にあるのは間違いなさそうです。

私たちは、過激な言葉に反応するあまり、彼が提起している本質的な問いを見失っているのではないでしょうか。彼が本当に目指しているのは、21世紀の常識をはるかに超えた、新しい社会の可能性なのです。われわれは彼の言葉を、もっと深いところで受け止める必要があったのではないでしょうか。

これは冷笑ではない。もっと大事なことに目を向けようという呼びかけだ。何がもっと大事なのか?選挙や政治、そして民主主義というゲームのルール自体をどう作り変えるか考えることだ。ルールを変えること、つまりちょっとした革命である。

成田悠輔『22世紀の民主主義』より

多くの人々が、言葉の印象に惑わされ、感情的な反応を示しました。その真意を汲み取ろうとする冷静な議論よりも、言葉の表層的な意味を捉えた非難の方が大勢を占めた感は否めません。

皮肉なことに、「集団自決」発言に対する大衆の反応は、成田の主張を裏付ける格好の証拠となったのかもしれません。感情に左右されやすい人間の意思決定に頼るのではなく、ビッグデータとAIを活用した新しい民主主義のあり方。

重要なのは、言葉の表層に惑わされることなく、その奥底にある意味を探ろうとする姿勢ではないでしょうか。成田悠輔の発言から私たちが学ぶべきなのは、言葉の使い方の適切さ云々ではなく、既存の枠組みにとらわれない自由な発想だろうと思います。


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