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本当のクオリアが何なのか、教えてくれよ。

1.クオリアという謎への招待

1.1 「ばか」とクオリア

「ばか」という言葉を聞いて、あなたはどのような感情を抱くだろうか。怒り、悲しみ、恥ずかしさ、あるいは軽蔑や侮辱の念だろうか。おそらく、その感情は人によって、そして状況によって大きく異なるはずだ。

例えば、見知らぬ人から突然「ばか」と罵倒された時と、恋人が甘えるように「ばか」とつぶやいた時とでは、感じ方は大きく違うだろう。前者では怒りや不快感が募るかもしれない。一方、後者では微笑ましさや愛おしさを感じるかもしれない。

また、「ばか」という言葉の意味を知らない外国人と、意味を理解している日本語話者では、「ばか」という言葉から受ける印象は全く異なるはずだ。言葉の理解の有無によって、喚起される感情は大きく変わってくる。

このように、「ばか」という言葉一つを取っても、それが引き起こす主観的な経験、つまりクオリアは、人や状況によって千差万別なのだ。

ところで、クオリアの説明では、しばしば「赤」の知覚経験が例に挙げられる。たとえば、「あなたの見ている赤と、私の見ている赤は、本当に同じなのだろうか」といった具合だ。

はたしてこの説明は適切だろうか。確かに、色覚には個人差があるだろう。しかし、「赤」の経験における個人差は、「ばか」の経験における個人差ほど大きくないはずだ。「赤は赤だろ」と言われてしまえば、クオリアの主観性を説明するのは難しい。

私は、「ばか」の方がクオリアを語るのにより適していると考える。なぜなら、「ばか」の経験は、「赤」よりもはるかに主観的で文脈依存的だからだ。状況が変われば、感情も理解も大きく変化する。そして人それぞれ。これこそが、クオリアの本質を突いているのだ。

だから、私は言いたい。クオリアを語るなら、「赤」よりも「ばか」なのだ、と。

1.2 クオリアとは何か

そもそもクオリアとは、一体何なのだろうか。よく引き合いに出されるのが、先ほども述べた「赤」の知覚経験である。つまり、「赤い色を見た時の主観的な経験」のことだ。

クオリアとは、主観的な感覚の質、感情の質などを指す言葉だ。例えば、「痛い」という感覚を考えてみよう。それは単なる生理的な反応ではない。痛みの質感、不快感、苦痛への恐れなど、主観的な経験の様々な側面が含まれている。

同様に、「嬉しい」という感情も、単なる肯定的な感情ではない。喜びの質感、満足感、幸福感など、その感情体験には独特の質がある。

このように、クオリアは、私たちの意識経験の質的な性質を幅広く指す概念なのだ。

まだ分からない?それなら、「ばか」だ。

「ばか」と言われたとき、その時あなたが感じたその「感じ」が、「ばか」という言葉が引き起こした、その瞬間のあなたのクオリア、である。

1.3 クオリアの説明困難性

「ばか」と言われたときの、その「感じ」、という説明で、なんとなくクオリアがどういうものかはつかめたのではないだろうか。しかし、「ばか」と言われた時の感情を、言葉で正確に表現するのは容易ではない。怒り、悲しみ、恥ずかしさなどの言葉を使っても、その感情のニュアンスまでは伝えきれない。

そもそも「ばか」という言葉の意味が、ひとつに定まってはいない。Wikipediaを見たら、6つの意味に8つの語源が載っていた。であれば当然に、「ばか」という概念は、個人の経験や文脈に大きく依存することになる。その意味やニュアンスは、人によって千差万別なのだ。

「クオリアは、言葉で説明することが難しい。」という文章を書くとき、「は」と「を」のどちらを使うべきか迷う。つまり、「クオリアは、言葉で説明することは難しい」と「クオリアを、言葉で説明することは難しい」の微妙なニュアンスの違いだ。この微妙さこそが、クオリアの説明の難しさを象徴している。

おそらく、どちらの文章でも伝わる意味は同じだろう。しかし、「は」と「を」の違いによって、読み手が受ける印象は変わってくる。これは、言葉の意味が完全に一意に定まらないことが原因だ。言葉の意味の曖昧さこそが、クオリアの言語化を困難にしている要因のひとつなのだ。

クオリアの説明困難性。その要因のひとつは言語の問題だ。そしてもうひとつは、クオリアが主観的なものである、という点にある。

「その『感じ』を言葉で伝えられるかどうか」という問題とは別に、そもそも「その『感じ』をどう感じているか」が、あなたと私とでは違うでしょう、という問題だ。哲学の分野では、これを「主観性」とか「私秘性」と呼んでいる。

哲学者のトマス・ネーゲルは、「コウモリであるとはどのようなことか」という思考実験で、このクオリアの説明困難性を示した。人間はコウモリと同じ感覚器官を持っていないため、コウモリの主観的な経験を理解することは不可能だというのだ。

なるほど、人間にはコウモリの感覚は理解できそうにない。そして、人間同士でも、一人として同じ人がいない以上、その「感じ」は人それぞれ異なるはずだ。よって、クオリアの説明が難しいということになるのだろう。

クオリアの説明が難しい、ということは認めざるを得ない。しかし、難しいということと不可能だということでは、だいぶ違う。私の立場は、クオリアの全てを説明し尽くすことは無理だとしても、その一部については説明可能だ、というものだ。たとえ一部だとしても、クオリアの説明に成功するならば、「赤を見たときの赤い感じ」などと言ってる現状からは、とてつもなく大きな進歩だと言えるだろう。

ここで注意が必要なのは、クオリアの説明可能性を考える際、クオリアをどこまで広く捉えるかによって、議論の行方が変わってくるということだ。伝統的には、クオリアを感覚の質(「感じ」)に限定する見方が主流だった。しかしここでは、クオリアをより広い意識経験の総体として捉えている。

クオリアを主観的な感覚だけに限定することは、あたかも机の表面だけを机と呼び、脚や縁を机の一部とみなさないようなものだ。机の表面は物を乗せるという中心的な機能を担っているが、脚や縁もまた、机の不可欠な構成要素である。同様に、クオリアの中核は主観的な感覚が占めるが、それだけではクオリアを捉えきれない。クオリアの説明可能性を探るためには、意識経験の総体を視野に入れる必要があるのだ。

1.4 クオリアの説明可能性と本コラムの目的

先日、AIに意識があるかどうかについて考えてみた。そもそも意識とは何なのだろうか。調べてみると、意識を理解するには、「クオリア」という概念を避けては通れないらしい。クオリアは、意識体験の主観的な性質を表す言葉だ。

「あなたが感じる赤の感覚と、私が感じる赤の感覚は、果たして同じなのだろうか?」といった具合だ。正直、これを何度聞いてもさっぱり分からない。「赤は赤だろ」と言いたくなる。クオリアってのは、一体何なんだ?

ということで、このコラムでは、クオリアの正体に迫ってみたいと思う。正確に言うと、クオリアの「輪郭」を描くことを試みる。

このコラムでは、クオリアを知覚、知識、感覚の観点から眺める。「赤」だけじゃなくて、「ばか」の例も出しながら。

そうすることで、クオリアの輪郭が少しでも明確になればと思う。もちろん、完全な説明には至らないだろう。それでも、クオリアについての理解を一歩でも前に進められたら、それで十分だ。

以上が、このコラムの目的である。ただし、実はこの議論は、もっと大きな問題の一部に過ぎない。

クオリアの先には、「意識のハードプロブレム」が待ち構えている。ハードプロブレムとは、物理的な脳のプロセスがどのようにして主観的な意識体験を生み出すのかを問う、極めて難解な問題だ。

ハードプロブレムはまるで、渡ることが至難の業の大河だ。物質と意識の橋を架けるべきなのか、それとも全く別の方法で渡るべきなのか。哲学者たちは長年にわたり、この問題に頭を悩ませてきた。

しかし私の見立てでは、ほとんどの人は、まだその大河の岸にすらたどり着いていない。その大河に近づくためには、まずクオリアという森を抜けなければならない。「赤い」とか言ってるようでは話にならない。

正直なところ、このコラムでも、ハードプロブレムという大河を渡りきることはできないだろう。しかし、せめてその岸辺までは到達できるはずだ。

クオリアの輪郭を描くことで、たどり着いた岸辺の向こう側に、意識の問題への解答が、ぼんやりと見えてくるかもしれない。そこから先をどう進むべきか。それについては、実際にその岸辺に立ってから考えるとしよう。もしかしたら、その時にはクオリアという舟で、大河に漕ぎ出すことができるかもしれないから。

2.三要素モデルの概要

2.1 知覚、知識、感覚

クオリアの問題に取り組むために、ここでは「三要素モデル」を提案する。三要素モデルは、クオリアを三つの要素の連続性から捉える試みである。このモデルは、クオリアの構造をシンプルに表現することで、その本質的な性質を明らかにすることを目指している。

具体的には、知覚、知識、感覚という三つの要素に着目し、それらの流れを分析することで、クオリアの多様性と複雑性に迫ろうとする。こうすることで、意識経験の質的な性格をより深く理解することが可能になるはずだ。

先ほど、「ばか」という言葉が引き起こすクオリアの方が、赤い色を見る経験がもたらすクオリアよりも、個人差が大きいことを指摘した。これは、「ばか」と言われる経験の方が、「赤」を見る経験よりも、主観性や文脈依存性が高いことに起因する。

「赤」よりも「ばか」の方が主観性が高いという事実、つまり経験によって主観性に差があるという発見は、控えめに言っても大発見だろう。従来、十把一絡げに「クオリアは主観的な性質を持つため、他者と共有することが難しい」などと言われてきたことを考えれば、なおさらである。

さらに見ていこう。「赤」は「ばか」よりも個人差が小さいが、クオリアの主観性には、個人差がほとんど生じない経験もある。激痛がその一例だ。激痛は誰もが同じように感じるだろう。これは、痛みの知覚が非常に強烈であるため、個人差が現れる余地がないからだと考えられる。

また、数学の教科書に載っている数字の「1」を見たとき、あなたと私の理解に差はないはずだ。数字の形を知覚し、その意味を理解することに、個人差は存在しない。これは、「1」という数字の意味が非常に明確で、解釈の余地がないからだと考えられる。そして、解釈の余地のない理解によってもたらされるものが、知識だ。

一方、感覚的な経験のクオリアは、個人差が大きい。「ばか」という言葉を聞いた時の不快感や怒りの度合いは、人によって大きく異なる。場合によっては感謝や喜びという反応もあり得るだろう。意味や文脈の受け取り方は、時と場合、人それぞれだ。

このように、三要素モデルでは、知覚、知識、感覚の三要素の、個人差の大小が浮き彫りになる。知覚の要素は個人差が小さく、知識の要素に個人差はない。一方、感覚の要素は主観的で個人差が大きいと言えるだろう。

個人差が小さい、あるいはない、とはどういうことか。それはすなわち、主観性が小さい、つまり、より客観的である、ということだ。

2.2 囲碁のメタファー

三要素が出そろったところで、クオリアの構造を理解するために、囲碁のメタファーを導入してみよう。もちろん、メタファーはどこまで行ってもメタファーに過ぎない。これで全てを説明したことにはならないが、それでも、つかみ所のないクオリアを具体的にイメージすることはできるだろう。

このメタファーは、クオリアを囲碁にたとえる。囲碁は単純でありながら複雑なゲームで、多様な展開が可能だ。これは、クオリアが多様で複雑な性質を持つことと対応している。

次に、知覚を碁盤に例えてみよう。碁盤は対局の基盤となるもので、知覚がクオリアの土台となることと対応している。碁盤にはサイズの違いがある。囲碁には、9路盤(9×9の線を持つ盤)、13路盤、19路盤などの盤面の大きさがある。標準は19路盤で、公式な対局でも19路盤が使われるが、初心者は9路盤や13路盤といった小さな碁盤を使うことが多い。これは、知覚の個人差を表現している。

ただし、知覚の個人差は、五感ごとに異なる。例えば、触覚に人並み外れて敏感な人は、触覚の世界では21路盤を使っているようなものだ。一方、味覚に鈍感な人は、味覚の世界では9路盤を使っているようなものだろう。このように、五感ごとに碁盤のサイズを変えることで、知覚の個人差を多面的に表現できる。

知識は、碁石に例えることができる。碁石は、対局を進める上で不可欠だ。これは、知識がクオリアを形作る上で重要な役割を果たすことと対応している。そして、碁石そのものには主観性がない。これは、知識は客観的だという三要素モデルの考え方と整合的だ。

碁石を碁盤に並べていくことは、知識が増えていくことの象徴だ。9路盤では碁石を少ししか置けないが、19路盤ではたくさん置ける。これは、知覚の容量や知識の豊かさを表現している。

そして、碁盤に碁石を並べていく対局のプロセスが、感覚を象徴している。同じ碁盤と碁石を使っても、対局ごとに展開は千差万別だ。これは、同じ知覚と知識の要素から、人によって異なる感覚が生み出されることを示唆している。

また、19路盤では多くの碁石を置くことができるが、それだけでは十分ではない。19路盤でも碁石を少ししか置いていなければ、その対局はまだ盛り上がっていない。これは、知覚の容量があっても、それを活用するだけの知識がなければ、豊かな感覚体験が生まれないことを表している。

子どもの頃は9路盤での対局しかできなかったが、成長するにつれて19路盤での対局が可能になる。これは、知覚の発達を表現している。

整理しよう。碁盤は知覚、碁石は知識、対局は感覚、そして囲碁全体がクオリアを表している。つまり、囲碁(クオリア)とは、碁盤(知覚)の上に碁石(知識)を並べることで始まる(生まれる)、対局(感覚)のことなのである。

3.三要素の選択基準

三要素モデルでは、クオリアを知覚、知識、感覚の三つの要素で捉える。この三要素を選択した最大の理由は、各要素における主観性の大小だ。より正確に言えば、まず完全に客観的と言える知識を選び、続いて主観性の比較的小さい知覚を選んだ。そして残った部分を感覚と呼ぶことにした。

知識は客観的なものだ。知覚は完全に客観的ではないが、ある程度の客観化は可能だ。たとえば、視力検査が良い例であろう。一方、感覚はどこまでも主観的だ。

このように、知識と知覚という二つの要素は、主観性のなさ、小ささを基準に選ばれた。主観性がないことは、クオリアの共有可能性を考える上で欠かせない視点だからだ。三要素モデルは、客観性の観点からクオリアの構造を描き出そうとする試みなのである。

ただし、三要素の選択には、他の基準も考慮されている。

一つは、クオリアの多様性を説明できることだ。知覚、知識、感覚の三要素で、クオリアの多様な性質を捉えることができる。

また、三要素が概念的に区別できることも重要だ。知覚、知識、感覚は、それぞれ異なる機能を担っており、分析の上では分けて考えることができる。

さらに、三要素が包括的であることも考慮した。この三要素は、クオリアを構成する主要な要素を網羅していると言えるだろう。もちろん、他の要素がいくつもあることは承知している。しかし、少なくとも初期の評価としては、この三要素で十分だと考えた。

このように、三要素モデルは、主観性の小ささを最優先の基準としつつ、クオリアの多様性、要素の区別可能性、および要素の包括性も考慮に入れて構築されたのである。

4.三要素の連続性

三要素モデルでは、知覚、知識、感覚の三つの要素が、クオリアを構成すると考える。しかし、これらの要素は(概念的には区別できるとは言え)、独立して存在するのではない。むしろ、三要素は連続的に影響を与え、その絶え間ない連続性がクオリアの質的な差異を生み出していると考えられる。

この「連続性」は、単なる時間的な流れを言うのではない。ここで言う「連続性」とは、知覚された情報は知識を経由して感覚へ至ることを意味している。つまり、プロセスが継続的に繰り返されるのだ。この影響の連鎖こそが、「連続性」の本質なのである。

この連続性を理解するために、再び囲碁のメタファーを用いてみよう。知覚を碁盤、知識を碁石、感覚を対局に例えるなら、三要素の連続性は以下のように説明できる。

対局は、碁盤の上に置かれた碁石の状態に応じて進行する。つまり、感覚は知覚をベースにした知識に依存しているのだ。そして同時に、知識は、次の感覚(解釈や感情など)を規定する。つまり、知識は次の感覚を生み出す源となるのだ。

一方、碁盤(知覚)は、一つの対局の間は変化しない。しかし、私たちの興味や注意が別のものに移ったとき、新しい碁盤(知覚)が用いられる。例えば、赤を見て赤を感じている際のクオリア(碁盤1)から、突然「ばか」と言われて生じたクオリア(碁盤2)へと移行するようなときだ。そして、その新しいクオリアが支配している間は、その碁盤が使い続けられる。

具体的な例を見てみよう。「ばか」がもたらすクオリアを考えてみる。まず、「ばか」という言葉を聞いたとき、その音声的な特徴が「知覚」される。次に、「ばか」についての(日本語である、国語辞典にはいくつかの意味が載っている、スペイン語には同音異義語がある等の)「知識」が参照され、この知識に基づいて意味(侮辱、戒め、冗談など)の理解(「感覚」)がなされる。この例でも、知覚された情報は知識を経由して感覚へ至っている。

そして、連続性はここで終わらない。理解された意味が「知覚」され、それが誰に言われたのかという関係性の「知識」に基づき、たとえば侮辱されたという解釈(「感覚」)に繋がる。やはり、知覚→知識→感覚だ。

このように、知覚(碁盤)、知識(碁石)、感覚(対局)が生み出す、絶え間ない連続性のダイナミクスこそが、クオリアの多様性と複雑性を表しているのである。

5.クオリアの共有可能性

ここで、クオリアの三要素を改めて確認したい。知覚、知識、感覚は以下のように定義できる。

知覚:五感を通じて得られる情報に基づく、対象の性質の捉え方。主観的ではあるが、ある程度の客観化が可能。
知識:過去の経験や学習によって得られた、事物に関する客観的な情報。
感覚:知覚と知識に基づいて生じる、主観的な感覚、感情、解釈など。

このような定義を示すと、「赤を見たときの赤い『感じ』がクオリアなら、知覚や知識はクオリアとは言わないのではないか?」という指摘が想定される。事実、伝統的には、クオリアを感覚の質(「感じ」)に限定する見方が主流だった。

しかし私は、クオリアを主観的な感覚だけに限定してきたことが、クオリアを共有も説明も不可能なものにしてきた元凶だと考えている。はっきり言えば、このせいで、クオリアの定義すらままならない状態だ。定義されていないものは、説明のしようがないではないか。

クオリアを感覚だけでなく、知覚や知識も含めて捉えることは、以下のような利点があると考えられる。

第一に、クオリアの成立プロセスをより詳細に理解することができる。感覚のクオリアは、知覚や知識なしには生じ得ない。例えば、「ばか」と言われたときの不快感は、「ばか」と言う音声の知覚と、「ばか」には侮辱の意味があるという知識があって初めて成立する。クオリアを感覚だけに限定すると、このようなクオリアの成立プロセスがまったく見えてこない。

第二に、クオリアの多様性を適切に捉えることができる。「ばか」には、「ばかなことはおやめなさい」というようにたしなめる意味もあるが、この知識を持たなければ、忠告されたときに生じるはずのクオリアは生じない。あるいは日本語をまったく理解しない者には「ばか」と言われたときのクオリアなど、そもそも生じようがない。つまり、クオリアの多様性を担保しているのは、知識であると言える。

第三に、これが本コラムにおける最大の理由だが、クオリアの共有可能性を探ることができる。感覚のクオリアは主観的で共有が難しいが、知覚や知識のクオリアは、ある程度の客観性を持つからだ。クオリアを広義に捉えることで、クオリアの共有可能性を多角的に検討できる。

以上のように、クオリアを感覚だけでなく、知覚や知識も含めて捉えることには、様々な利点がある。

伝統的には、知覚は感覚に直結するものとしてクオリアに含まれたが、知識は高次の認知としてクオリアとは区別されることが多かった。

しかし、知覚は、感覚器官から得られた情報を処理し、解釈する過程とされるが、その解釈には知識が不可欠であり、知識を経由することでクオリアが生み出されると考えられる。ならば、知識もクオリアに含めるべきだろう。

さて、客観的である知識をクオリアに含めるということは、重要な意味を持っている。なぜなら、これはクオリアの一部に、他者と共有できる側面があることを示唆しているからだ。

このことは、クオリアを言葉で表現する可能性にもつながる。知識は、言葉を介して他者に伝えることができる。クオリアの一部を言語化できるということは、それを他者に伝える道があるということだ。

そもそも、言語によるコミュニケーションは、ある意味でクオリアの共有を実現していると言える。私たちが言葉を交わすとき、互いの知識を共有することを通じて、部分的にではあるがクオリアを共有しているのだ。もちろん、言語で共有できるのはクオリアの一部に過ぎない。言語化できない感覚の部分は、依然として主観的な領域に留まる。しかし、クオリアの一部が共有可能だということは、クオリアが完全に主観的な存在ではないことを示唆している。

もちろん、クオリアの一部を共有できるからといって、クオリアの主観性が失われるわけではない。感覚の要素には、主観性が色濃く反映される。三要素モデルは、主観と客観のバランスを取ろうとする試みだと言える。

感覚の要素は、主観性が大きい。知覚にも主観性はあるが、感覚ほどではない。一方で、知識には、主観性がなく共有が可能だ。このように、三要素モデルは、クオリアの主観性と客観性のバランスを捉えることを可能にする。

クオリアの主観性と客観性のバランスを理解することは、クオリアの本質に迫る上で重要な手がかりになるだろう。クオリアは、完全に主観的でも、完全に客観的でもない。むしろ、主観性と客観性の複雑な絡み合いの中に、クオリアの真の姿があるのだ。三要素モデルは、このようなクオリアの複雑な性質を明らかにする上で、有効な枠組みを提供していると言えるだろう。

6.三要素モデルの限界

三要素モデルでは、クオリアを知覚、知識、感覚の三要素に分けて考える。このうち、知識は言語化が可能であり、クオリアの共有可能な部分を担っている。例えば、「りんご」という言葉の意味を、人は知識として他人に伝えることができる。知識に主観性はない。この部分は、三要素モデルによって明らかにすることができる。

知覚の要素も、ある程度は言語化が可能だ。例えば、「赤い」「丸い」といった特徴の知覚は、言葉で表現することができる。しかし、たとえば「甘い」という知覚は、他人とのすり合わせはおろか、自分自身であってもタイミングによって「甘さ」の知覚が変わってくる。りんごの前にチョコレートを食べていた場合、同じ糖度のりんごであっても、酸っぱく感じることになるだろう。知覚には(感覚ほどではないとは言え)主観性があるのだ。その主観性は、やはり言葉で表現することは難しい。

三要素モデルは、主観性のない知識と、主観性の小さい知覚を取り出すことで、クオリアの普遍的な部分を切り取った。そこから取り残されたのが、感覚だ。クオリアの多様性を生み出すのは、感覚の要素なのである。

感覚の要素は、言語化が最も難しい部分だ。「このりんごを食べた時の満足感」といった主観的な感覚は、言葉で表現するのが困難である。感覚は千差万別であり、無限に複雑だからだ。三要素モデルは、感覚の存在を指し示すことはできるが、その内実を明らかにすることはできない。

クオリアの中心には、感覚の多様性と言語化の難しさがあると言える。知識と知覚は、クオリアのごく一部を捉えているに過ぎない。

クオリアを理解するために、別のメタファーを考えてみよう。クオリアを料理に例えるのだ。この比喩では、知識と知覚は食器にあたる。そして、感覚は調理された食材そのものだ。

食器は料理を盛り付けるのに必要だが、食器だけでは料理として不十分。肝心なのは食材である。同様に、知識と知覚はクオリアを形作る上で必要だが、クオリアの中心は感覚なのだ。

では、感覚を理解するためには、どうしたら良いのだろう。いくつかの下位カテゴリーに分類することだろうか。それでも足りなければ、さらに分類すれば良いのだろうか。しかし、感覚をいくら細分化しても、それは無限に複雑になるだけで、説明したことにはならない。食材を原子レベルに細かくしても、料理を説明したことにならないのと同じだ。

つまり、感覚、すなわちクオリアを、言葉で完全に説明することは不可能なのだ。いくら言葉を尽くしても、どうしても取りこぼしが出てしまう。だから、三要素モデルに限界があるのは当然なのだ。

むしろ、三要素モデルは、クオリアを完全に説明するという、不可能を可能にするかのようなことを目指しているのではない。説明不可能なクオリアの本質を浮き彫りにすることに意義があると考えているのだ。

三要素モデルは、クオリアの複雑さを完全には説明しない。その輪郭だけを描いた。すなわち、それが食用可能かどうかすら分かっていなかった物体を、料理として食器に盛り付けたのが、三要素モデルなのだ。クオリアという料理の味わいを、誰か、確かめてきてくれないだろうか。そして、その味を、私に教えて欲しい。

7.先行研究との比較

三要素モデルは、クオリアの理解に新しい視点を提供する試みだ。ここでは、この三要素モデルと、先行するクオリア研究との関係を見ていこう。

現象学との差異

現象学は、主観的な経験の構造を記述することを重視する哲学の一分野だ。フッサールに代表される現象学者は、意識体験を知覚、感覚、判断などの要素に分類することで、意識の構造を明らかにしようとした。

この点で、現象学は三要素モデルと共通の関心を持っていると言える。しかし、現象学では、これらの要素の連続性は十分に説明されていない。

三要素モデルは、知覚、知識、感覚の連続性を重視し、クオリアの動的な性質を捉えようとする点で、現象学を発展させる試みだと言えるだろう。

認知科学との差異

認知科学は、人間の心的活動を情報処理の観点から研究する学際的な分野だ。認知科学では、知覚、感覚、思考などの心的機能を、それぞれ独立した情報処理システムとして扱うことが多い。例えば、視覚的な知覚の研究は、意識の機能的な側面を理解する上で重要な役割を果たしてきた。

しかし、機能の研究は意識を知る一つの方法ではあるが、機能は意識の本質ではない。定石を知ることが囲碁の上達の方法の一つであっても、定石は囲碁の本質ではないのと同様だ。

意識の本質を探るためには、機能的なアプローチだけでは不十分である。クオリアを理解するためには、知覚、知識、感覚の連続性を考慮することが不可欠だというのが、三要素モデルの立場だ。この点で、三要素モデルは、認知科学の伝統的なアプローチに一石を投じるものだと言えるだろう。

クオリア研究との関係

クオリア研究は、意識経験の主観的な性質を理解することを目指す研究分野だ。クオリア研究では、知覚のクオリア(例えば赤の経験)を中心に、その説明不可能性や主観性が論じられてきた。

三要素モデルは、感覚だけでなく、知覚や知識のクオリアへの影響にも光を当てる点で、従来のクオリア研究を拡張するものだ。また、クオリアの構造を知覚、知識、感覚の三要素で捉え、それらの連続性を重視する点も、三要素モデルの独自性を示している。この意味で、三要素モデルは、クオリア研究に新しい視点を加えるものだと言えるだろう。

以上のように、三要素モデルは、現象学、認知科学、クオリア研究といった先行研究と関連を持ちながらも、独自の視点を提供するものだ。

8.おわりに

以上が、「三要素モデル」です。知覚、知識、感覚という三つの要素に着目し、それらの連続性によってクオリアを説明しようとするこのモデルは、意識の謎に挑む一つの試みとして提案されました。

察しの良い方ならすでにお気づきでしょう。私たちは、ハードプロブレムという大河の岸辺に立っています。

碁盤と碁石から対局が生まれるように、脳の物理的なプロセスから意識が生まれる。同じ碁盤と碁石でも異なる対局が生まれるように、同じ脳でも異なる主観的経験が生まれる。このように、囲碁のメタファーは、物質と意識の関係性を捉えることに成功しています。

もちろん、メタファーはどこまで行ってもメタファーで、これをもって全てを解決したと主張するつもりはありません。でも、少なくとも私が知る限り、クオリアについて、ここまできちんと説明できたことは、これまでなかったんじゃないでしょうか。知らんけど。

蛇足かもしれませんが、もう少し語ってみましょう。

三要素モデルは、クオリアの主観性と客観性のバランスを取ろうとする、というのはその通りなのですが、実のところ、私は、クオリアを客観的に解析することが原理的には可能だ、という立場です。と同時に、現実問題としては不可能だとも考えています。

囲碁のメタファーに当てはめれば、簡単な話です。対局を、客観的に観察することは可能だ、ということです。しかし現実には、知覚ですら完全に解明されているとは言い難く、これは、碁盤すら用意できていない、ということになります。知識については定義上それが何であるかは明らかですが、碁石を一体いくつ用意すべきかは分かりません。そもそも白と黒の石だけで良いのか。赤い石は必要ないのか。そんな状態で、対局(感覚)を眺めても、そこで何が行われているのか、皆目見当も付かないでしょう。これが、原理的には可能だが、実質的に不可能、という意味です。

まあね、私は専門家ではないので、「三要素モデル」も囲碁のメタファーも、その妥当性や有効性については分からない、というのが正直なところです。あくまで素人の思いつきであり、単なる妄想に過ぎないのかもしれません。

でも、「三要素モデル」が、意識の謎に一歩近づくための、何らかのヒントにでもなってくれたら嬉しいんですけど。


追記
当初、三要素モデルは知識、理解、感覚の三要素で説明されました。ところが、理解を「個人差がない」と定義したことに対する批判が大きかった。よって、理解を知識と改め、三要素としています。知識と理解が置き換わっているだけで、説明の内容自体はほとんど同じです。(2024/04/24)

追記2
なんだかんだで、1/4ほどは書き直しました。(2024/04/25)


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