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『リンゴの気持ちは知らないけれど ~「メアリーの部屋」からの脱獄~』

1.はじめに

意識のハードプロブレム、つまり物理的な脳のプロセスがどのように主観的な意識体験を生み出すのかという問題は、現代の心の哲学において最もやっかいな問題の一つとされている。

前回のコラム『意識はハート♡プロブレム:知覚・体験・意識の連続性』では、知覚と体験の本質的な同一性や、意識の階層性と連続性に着目し、情報処理の観点から、意識のハードプロブレムは存在しないことを論じた。

今回は、また別のアプローチで、意識のハードプロブレムがないことを示してみようと思う。前回と同様に、知覚と体験の同一性に着目するが、今回は、フランク・ジャクソンが提唱した「メアリーの部屋」という思考実験を出発点にする。

「メアリーの部屋」は、物理的な知識と体験の関係を探る興味深い思考実験だ。この思考実験が提起する問題は、意識のハードプロブレムを考える上で重要な示唆を与えてくれる。

ただし、この思考実験に潜む「赤」の問題が、議論を不必要に複雑にしていると、私は考えている。「赤」の知覚と体験の区別があいまいであるために、議論が混乱してしまうのだ。

そこで、このコラムでは、「メアリーの部屋」の思考実験の設定自体を見直すことを提案したい。具体的には、「赤」の代わりに「リンゴ」を例に用いることで、知覚と体験の区別を明確にし、そのギャップについて新しい視点から考察する。

さらに、高度に発達したバーチャルリアリティ(VR)技術を想定することで、物理的な知識と主観的な体験のギャップが、実質的に解消可能であることを論じてみたい。

2.「メアリーの部屋」

「メアリーの部屋」の思考実験というものがある。

メアリーは優れた科学者で、色に関するあらゆる物理的な知識を持っている。しかし、彼女は生まれてからずっと白黒の部屋で暮らしており、一度も色を直接見たことがない。ある日、メアリーは部屋から出て、初めて赤を目にする。念のため言っておくが、これは実話ではない。そういう設定の思考実験だ。

ここで問われるのは、メアリーが赤を見たとき、色に関する新しい知識を得るのかどうかだ。つまり、初めて見た赤に、多少なりとも驚くか、と言って良いかもしれない。もしメアリーが(色に関するあらゆる物理的な知識を持っているにもかかわらず)多少なりとも驚くなら、それは新しい知識を得たということである。つまり物理的な知識だけでは説明できない、主観的な経験が存在することの証拠だ。

それにしても、また「赤」である。以前の議論(『本当のクオリアが何なのか、教えてくれよ。』)でも述べたが、「赤」は例示として不適切なのだ。

しかし、「メアリーの部屋」に言及する多くの論者は、この思考実験の設定を所与のものとして議論を展開している。つまり、メアリーが「赤」に関するすべての物理的知識を持っているにもかかわらず、「赤」の体験をしていないという前提を疑っていないのだ。

「赤を見る体験」と言っても、それは「赤を知覚する」ことと何が違うのか、という話である。赤を見る体験とは、光の波長に関する情報処理(=赤の知覚)の結果として生じる主観的な感覚のことだ。二つは切っても切り離せない。赤を見る(知覚する)ことなしに、赤を体験することはできないし、逆に、赤を見ることは(知覚すれば)、赤を見る体験を必ず伴う。

さて、知識と言えば、言語で記述したものをイメージするだろうか。しかし、知識には体験的理解もある。体験的理解とは、知覚を通して知識を得ることだ。たとえば、リンゴの絵を見る。これは、リンゴに対する体験的な知識の獲得だ。では、赤に対する体験的理解とは何だ?

このことが、おそらくその意図はなかったと思うが、「メアリーの部屋」を引っかけ問題化した原因だ。「初めて赤を見る体験」をする前に、すべての物理的知識を持っているならば、赤の体験的理解、すなわち赤を見ることも含まれるのか?

この思考実験は設定自体に無理がある。だから、この思考実験を正しく理解するには、「赤」は忘れた方がいい。

3.「赤」から「リンゴ」へ

「メアリーの部屋」の思考実験では、「赤」の例が問題を引き起こしている。「赤を見る体験」と「赤を知覚する」ことの区別が曖昧なため、「すべての物理的知識」に体験的理解を含めるべきかどうかが不明確になってしまうのだ。

そこで、「赤」の代わりに「リンゴ」を例にとってみよう。メアリーはリンゴに関するあらゆる物理的な知識を持っている。しかし、彼女は一度も実際のリンゴを見たことがない。そして、ある日、メアリーは初めてリンゴを目にする。

この設定なら、リンゴを知覚することとリンゴを体験することの区別は明確だ。リンゴについての説明書に、書かれた説明文を読むことであれ、そこに載った絵を見ること(体験的理解)であれ、「すべての物理的知識」を得ることは、リンゴの実物を見ることや手に取ることとは明らかに異なる。

そして、知覚と体験の区別が明確であるからこそ、メアリーが「すべての物理的知識」を持っているという前提が有効になる。リンゴの絵を見ること(体験的理解)を「すべての物理的知識」に含めることにためらいを感じる必要がないのだ。リンゴについての体験を考えるとき、「赤を体験する前に赤を見てしまって良いのか」という、意味不明な悩みにアタマを抱える必要がないのだ。

ここで重要なのは、「リンゴ」の例を使うことで、「すべての物理的知識」という概念を明確に定義できるということだ。体験的理解(リンゴの絵を見ること)は「すべての物理的知識」に含まれる。このことが、「メアリーの部屋」の思考実験を正しく理解する上で不可欠となる。

したがって、「メアリーの部屋」の議論を進めるには、「赤」ではなく「リンゴ」を使うべきだ。それにより、「すべての物理的知識」という概念を明確にし、思考実験の前提条件を正確に設定することができるだろう。

4.高度に発達したVR

ここで、高度に発達したバーチャルリアリティ(VR)技術を想定してみよう。このVR技術は、人間の知覚を完全に再現することができるほど精巧なものだ。

メアリーは、このVR技術を用いて、リンゴに関するあらゆる物理的な知識を得ることができる。彼女は、リンゴの形状、色彩、質感、におい、味といった感覚的性質を、VR空間内で(見たり触ったりして)知識として獲得できるのだ。

念のため、確認しておきたい。リンゴの説明書に載ったリンゴの絵を見ることは、体験的理解として「すべての物理的知識」に含まれる。リンゴの絵を写真に差し替えたとしても、その意味は何も変わらない。説明書が紙ではなくデジタルデータで配布され、モニタ上で3D表示されても、本質的に同じだ。よって、VRを通してリンゴについての知識を得ることも、やはり体験的理解として「すべての物理的知識」に含まれるのだ。

そして、メアリーがVR空間内でリンゴの知識を得ることと、実際のリンゴを見ることの間に、違いはあるだろうか。高度に発達したVR技術を前提とするなら、両者の間に違いはないはずだ。

なぜなら、VR技術が人間の知覚を完全に再現できるのであれば、VR空間内での知識獲得と現実の体験は、主観的には区別がつかないからだ。つまり、メアリーにとって、VR空間内のリンゴも、実際のリンゴも、同じように知識を獲得でき、同じように体験されるのである。

もしそうだとすれば、メアリーがリンゴに関するあらゆる物理的な知識を持っているならば、彼女は実際のリンゴを見る前から、リンゴを体験していることになる。

この議論は、物理的な知識と主観的な体験の間のギャップが、原理的には解消可能であることを示唆している。高度に発達したVR技術を想定することで、「メアリーの部屋」の思考実験が提起する問題に、一つの解答を与えることができるのだ。

5.反論と応答

この議論に対しては、次のような反論が想定される。

「たとえ高度に発達したVR技術を想定したとしても、VR空間内での体験と現実の体験の間には、わずかながらも違いが残るのではないか。」

確かに、現在のVR技術では、バーチャルとリアルとの間に違いがあることは事実だ。しかし、ここで想定しているのは、人間の知覚を完全に再現できるほど高度に発達したVR技術である。もしそのようなVR技術が実現されれば、VR空間内での体験と現実の体験の間に、主観的な違いはなくなるはずだ。

アナログレコードとデジタル音源の例を考えてみよう。CDが登場した当初、アナログレコード派は猛反発した。彼らは、「アナログレコードには音のすべてが記録されているが、デジタルなCDは原理的に音の捨象が生じる」と主張した。

しかし、技術の進歩により、その差異は次第に縮小していく。ハイレゾ音源の登場により、その差異は人間の知覚できる範囲を超えてしまった。今となっては、もう誰もその「捨象」には気づけないだろう。

この例は、技術的な進歩によって、知覚と体験の差異が原理的に解消可能であることを示唆している。VR技術の進歩によって、VR空間と現実の差異も、いずれ人間の知覚の範囲を超えるものになるだろう。そうなれば、両者の間に主観的な違いはなくなるはずだ。

あくまでも、原理的には、であるが。

6.意義と展望

ここまでに、「メアリーの部屋」の思考実験に対する新たな反論を提示した。「赤」の代わりに「リンゴ」を例に用いることで、知覚と体験の区別を明確にし、思考実験の前提条件を見直した。また、高度に発達したVR技術を想定することで、物理的な知識と主観的な体験のギャップが実質的に解消可能であることを示した。

これらの反論は、「メアリーの部屋」の思考実験が物理主義に対する決定的な反論にはならないことを示唆している。つまり、主観的な体験の存在が、物理主義の限界を示すとは限らないのだ。

アナログレコードを聴くというオーディオ体験は、CDを聴くことに比べ、「音に温かみがある」と言われてきた。この「温かみ」は、アナログレコードでは音の情報が連続的に記録されていることに起因する。一方、CDの「冷たさ」は、音の情報がデジタルとして非連続的に記録されていることに由来している。

しかし、アナログレコードとCDの音質の差異は、技術の進歩によって次第に縮小していった。ハイレゾ音源の登場により、その差異は人間の知覚できる範囲を超えてしまった。今となっては、もはや人間にその差を認識することはできない。

これは、その他の体験と知覚の関係にも当てはまる。つまり、オーディオ体験に限った話ではなく、あらゆる体験と知覚の差は、技術の進歩によって徐々に縮小していくのだ。

今後、意識のハードプロブレムをめぐる議論では、技術的な進歩にもかかわらず、どの点においてギャップが存在するのかを明確にすることが求められる。すなわち、「メアリーの部屋」によって物理主義に向けて投げられたボールは、再びアンチ物理主義に投げ返されたのだと言える。

しかし、今回の議論によって、「メアリーの部屋」が意図した物理主義への攻撃は、概ね無効化できたのではないだろうか。そう、すでに結論は出ているように思う。

物理的な知識と主観的な体験のギャップが、実質的に解消可能であると言うことは、「メアリーの部屋」への反論を越え、意識のハードプロブレムがイージープロブレムに還元できることを示す。もちろん、これで意識の全容が解明されたわけではない。しかしそれでも、少なくとも原理的には、意識のハードプロブレムは存在しないと言えるのだ。


例によって、ここで述べたことはすべて、素人の思いつきです。間違っていたらごめんなさい。



追記
Adobe Fireflyが発表になったので使ってみた。ChatGPTよりこちらの方が良いかな、ということで、表紙を差し替え。それに伴い、タイトルも変更しました。(2024/04/26)


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